• [0]
  • 天草の偉人・天草郷友会の祖「竹添井井」研究

  • 投稿者:小山
  • 投稿日:2013年 6月 3日(月)16時31分2秒
 
天草の偉人・東京天草郷友会の創始者「竹添井井(たけぞえせいせい)」文学碑&お墓を巡るツアーを6月15日(土)に実施しましたが、いろいろな発見もありましたので、引き続き「竹添井井」を研究するコーナーとして残したいと思います。
調査結果、情報交換としてご利用ください。

投稿者
題名
*内容 入力補助画像・ファイル<IMG> youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
URL
sage

  • [42]
  • Re: 竹添先生の書「寿」 の所在地

  • 投稿者:河童
  • 投稿日:2015年 1月 9日(金)20時03分1秒
  • 返信
 
 ご報告が大変遅くなりました。
 トニーさんから、この貴重な「書」をどこかで役立つ方法はないかと相談がありました。
 千葉県我孫子市にある「白樺文学館」に寄贈したらどうかと返事しました。
 白樺文学館には武者小路実篤等の白樺派の資料。
 嘉納治五郎は我孫子に別荘や農園を所持(現在跡地あり)
 竹添先生は嘉納治五郎の義父である。
 文学館には嘉納治五郎関連の資料が少なく喜んで受け入れてもらいました。
 平成27年正月5日 山﨑信一さんにも報告してきました。






> 39
> 平成10年3月7日除幕式
> 竹添進一郎先生胸像除幕記念
> 竹添先生の書 「寿」一文字書きの額を上天草市大矢野の山﨑信一先生から頂戴しました。
> 大胆な太筆文字「寿」一文字の中にも、天草人らしい優しさが籠もっています。心が安らぐ誰にでも愛される筆タッチです。
> 山﨑先生いつもご協力くださりありがとうございます。
> 東京天草郷友会竹添井井研究会を代表しまして感謝申し上げます。
>
> 写真を添付しました。
> 皆様ご覧ください。
> (※No.39をこちらに一部訂正、加筆しました)

  • [41]
  • 「東京天草郷友会百年の歩み」一部訂正について

  • 投稿者:トニー
  • 投稿日:2014年 7月10日(木)12時34分53秒
  • 返信
 
3月に逝去された大田至第11代の東京天草郷友会会長が、平成11年(1999)に執筆された「東京天草郷友会百年の歩み」の中の、郷友会の祖竹添進一郎(井々)生年、没年、東大教授在任期間等の間違いを管理人さんに訂正していただきました。皆様にお知らせさせていただきます。

  • [40]
  • Re: 竹添先生の書「寿」

  • 投稿者:トニー
  • 投稿日:2014年 6月 6日(金)07時21分22秒
  • 返信
 
39
平成10年3月7日除幕式
竹添進一郎先生胸像除幕記念
竹添先生の書 「寿」一文字書きの額を上天草市大矢野の山﨑信一先生から頂戴しました。
大胆な太筆文字「寿」一文字の中にも、天草人らしい優しさが籠もっています。心が安らぐ誰にでも愛される筆タッチです。
山﨑先生いつもご協力くださりありがとうございます。
東京天草郷友会竹添井井研究会を代表しまして感謝申し上げます。

写真を添付しました。
皆様ご覧ください。
(※No.39をこちらに一部訂正、加筆しました)

  • [39]
  • 竹添先生の書「寿」

  • 投稿者:トニー
  • 投稿日:2014年 6月 6日(金)07時02分6秒
  • 返信
 
38
平成10年3月7日除幕式つ
竹添進一郎先生胸像除幕記念
竹添先生の書 「寿」一文字書きの額を上天草市大矢野の山﨑信一先生から頂戴しました。
大胆な太筆文字の「寿」一文字の中にも、天草人らしい優しさが籠もっています。心が安らぐ誰にでも愛される分かり易い筆タッチです。
山﨑先生いつもご協力くださりありがとうございます。
東京天草郷友会竹添井井研究会を代表しまして感謝申し上げます。

写真を添付しました。
皆様ご覧ください。
(※No.38をこちらに一部訂正、加筆しました)

  • [38]
  • 竹添先生の書「寿」

  • 投稿者:トニー
  • 投稿日:2014年 6月 5日(木)20時19分38秒
  • 返信
 
平成10年3月7日除幕式
竹添進一郎先生胸像除幕記念
竹添先生の「寿」
一文字書きを上天草市大矢野の山崎信一先生から頂戴しました。
大胆な太文字の「寿」一文字の中にも、天草人らしい優しさが籠もっています。心が安らぐ誰にでも愛される分かり易い筆タッチです。
山﨑先生毎度ありがとうございます。
東京天草郷友会竹添井井研究会を代表しまして感謝申し上げます。

写真を添付しました。
皆様ご覧ください。

  • [37]
  • 竹添履信について

  • 投稿者:トニー
  • 投稿日:2014年 5月13日(火)18時15分20秒
  • 編集済
  • 返信
 
[35]文章を下記の通り訂正した。

天草の山﨑信一先生から「竹添履信」に関する貴重な資料をいただいた。山﨑先生には度々資料をご提供くださり感謝申し上げます。

【竹添履信略年譜】
●明治30年3月3日、当時の東京市小石川區富坂町18番地に講道館創始者嘉納治五郎の長男として出世。母須磨子(竹添進一郎の次女)。
●明治37年4月4日、祖父竹添進一郎の養嗣子となる。
●大正4年(19歳)4月東京高等師範学校附属中学校を卒業。
●大正6年「創作」3月号に嘉納登仙の筆名にて短歌を発表し初む。同年3月31日祖父進一郎死去。
●大正8年「創作」7月号誌上より二九十八の筆名に替ふ。
●大正12年春陽会第一回展覧会に出品入選。同会に国畫会創設されるやその会に移りて引き続き出品す。
●大正13年「創作」10月号誌上より本名竹添履信を用ふ。
●大正14年(29歳)、早川一子と結婚。
●大正15年5月13日、長女佑子誕生。10月神奈川県小田原町に転居。
●昭和2年(31歳)、長男信之誕生。
●昭和3年5月24日、欧州諸国の美術研究のため外遊の途に就く。
●昭和5年6月2日、帰朝。
●昭和9年9月14日、小田原の自宅にて死去(38歳)

竹添履信という人はどのやうな人だったのだろうか。嘉納治五郎の次男で弟の履正(講道館3代目館長)は亡き兄に関する雑感でこのやうに述べている。「亡くなった兄を頭において何か書こうとしても、丁度めまぐるしい映画を見ているみたいで、大写しではっきりしたある印象が現れたと思うと、次の瞬間にはすぐ断片的な記憶が次々に頭を掠めてきて、一向に落ちついた気持ちになれない。」この兄評価からして絵画や書の他、短歌、詩、彫刻にも興味を示し、若死にだった故、何かに大成した訳ではなかったけれど梅原龍三郎、志賀直哉等とも親しく交流を持ち、オールラウンドな芸術家だったことは間違いないだろう。
山﨑先生のお陰で無活動状態だった郷友会竹添井々(進一郎)研究会の、久しぶりの活動となった。

下記に資料写真を添付する。
(※写真[35]をご参照ください。)

http://絵


  • [36]
  • 竹添履信について

  • 投稿者:トニー
  • 投稿日:2014年 5月13日(火)12時53分10秒
  • 返信
 
竹添履信資料写真3枚添付

  • [35]
  • 竹添履信について

  • 投稿者:トニー
  • 投稿日:2014年 5月13日(火)12時31分5秒
  • 返信
 
天草の山﨑信一先生から「竹添履信」に関する貴重な資料をいただいた。山﨑先生には度々の資料をご提供くださり感謝申し上げます。

【竹添履信略年譜】
??明治30年3月3日、当時の東京市小石川區富坂町18番地に講道館創始者嘉納治五郎として出世。母須磨子(竹添進一郎の次女)。
??明治37年4月4日、祖父竹添進一郎の養嗣子となる。
??大正4年(19歳)4月東京高等師範学校附属中学校を卒業。
??大正6年「創作」3月号に嘉納登仙の筆名にて短歌を発表し初む。同年3月31日祖父進一郎死去。
??大正8年「創作」7月号誌上より二九十八の筆名に替ふ。
??大正12年春陽会第一回展覧会に出品入選。同会に国畫会創設されるやその会に移りて引き続き出品す。
??大正13年「創作」10月号誌上より本名竹添履信を用ふ。
??大正14年(29歳)、早川一子と結婚。
??大正15年5月13日、長女佑子誕生。10月神奈川県小田原町に転居。
??昭和2年(31歳)、長男信之誕生。
??昭和3年5月24日、欧州諸国の美術研究のため外遊の途に就く。
??昭和5年6月2日、帰朝。
??昭和9年9月14日、小田原の自宅にて死去(38歳)

竹添履信という人はどのやうな人だったのだろう。嘉納治五郎の次男で弟の履正(講道館3代目館長)は亡き兄に関する雑感でこのやうに述べている。「亡くなった兄を頭において何か書こうとしても、丁度めまぐるしい映画を見ているみたいで、大写しではっきりしたある印象が現れたと思うと、次の瞬間にはすぐ断片的な記憶が次々に頭を掠めてきて、一向に落ちついた気持ちになれない。」この兄評価からして絵画や書の他、短歌、詩、彫刻にも興味を示し、若死にだった故、何かに大勢した訳ではなかったけれど梅原龍三郎、志賀直哉達とも親しく交流を持ち、オールラウンドな芸術家だったことは間違いないだろう。
山﨑先生のお陰で無活動状態だった郷友会竹添井々(進一郎)研究会の、久しぶりの活動となった。

下記に資料写真を添付する。

  • [34]
  • 双殉行について

  • 投稿者:トニー
  • 投稿日:2013年12月31日(火)14時17分59秒
  • 返信
 
郷友会の祖、この「竹添井井」研究は、乃木神社近くの、鳥羽瀬正一(第15代会長)様の会社を、藤川現会長が訪問されたとき、元会長の「乃木神社内に、竹添井井の文学碑がある」の、一言から始まり、6月16日(日)の乃木神社ツアーには大勢の郷友会会員が参加した。
その後、上天草市の竹添井井研究第一人者山﨑信一先生と関わりが出来、分からなかったことが解きほぐされたり、亦貴重な資料や写真をいただいたりし、お陰様で郷友会竹添研究も研究幅が少しずつ拡がり、研究会らしく?なってきた。
一昨日、復、貴重な資料と写真をいただいた。
その内容から新しい事実発見がありましたので一部抜粋して紹介する。

資料、「歴史玉名」第14号伊倉点描より
【竹添井井の文学碑と雙殉行】
竹添井井を尊敬した夘野木卯一良(うのきういちろう)は明治37年生まれの玉名伊倉の人である。
熊本農業学校、矢部農業学校、熊本商業学校などで25年間教鞭をとり、授業が面白いと生徒間で評判の名物教師でした。
昭和13年に「肥後史話」を出版し、7版14000部を売り上げ、読者へ感謝の気持を表したいと次々に3基の史跡文教碑を寄贈した。
その第3基が赤坂乃木神社二の鳥居前の文学碑・雙殉行碑である。
夘野木宇一良は雙殉行碑を寄贈するに当たって、「竹添先生には私の祖父が伊倉の塾で教えを受けたという縁もある。郷土の文人を顕彰するとともに、今日の時代に乃木将軍の責任感を強く訴えたかった」と語っている。
夘野木卯一良氏は昭和62年に81歳で逝去され、墓所は熊本市桃尾墓園にある。

【墓碑について】
大正6年3月21日没す
東京小石川音羽護国寺に葬る
「好学院井々居士」
※現在の墓碑は「歸雲」と書いてある。

今年最後に天草の山﨑信一先生、竹添井井研究の皆様、訪問者の皆様、この場をお借りし、お礼を述べさせていただきたい。
今年度のご指導や資料提供、竹添井井研究スレッド訪問その他諸々、皆様色々とありがとうございました。
感謝いたしております。
明年もどうかよろしくお願いします。

添付写真は雙殉行詩4幅
?写真①  七十一叟井〃
(熊本日日新聞 肥後の墨美より)
?写真②  上は原田陽岳敬書
             下は写真①に同じ
?写真③  源正親書

  • [33]
  • 麹町「宝亭」跡地探し

  • 投稿者:トニー
  • 投稿日:2013年12月 8日(日)05時37分25秒
  • 返信
 
折しも、NHK朝の連ドラ「ごちそうさん」が人気である。
そもそもこの番組は明治28年、銀座に創業した洋食屋「煉瓦亭」がモデルとなっているらしい。この「煉瓦亭」はカツレツやオムライス考案のお店として都度に知られている。
さて、トニーが調べたいのは銀座の「煉瓦亭」ではない、麹町「宝亭」である。
東京天草郷友会の創始者、竹添井井や中井励作等が集まっていたとされる、神田淡路町の「宝亭」と思しき「松栄亭」には、高Sさんが2度も3度も訪れ、調べあげた。
その結果、「松栄亭」は最初「宝亭」を名乗っていた、と推測したのは間違いで、創業当初から「松栄亭」であった。
郷友会の資料にある神田淡路町の「宝亭」、これを麹町「宝亭」と間違えるだろうか?些か疑問が残るが何かの間違いとするしかない。
トニーは昨日、今は無くなってしまった麹町「宝亭」跡地探しに出掛けた。
その結果を、談話室竹添井井研究スレッド訪問の皆様に報告する。
当然ながら、予め予備資料を持って出掛けた。
しかし、予備資料そのものが古かったため、随分苦労だった。
予備資料でもそうだが、麹町「宝亭」は空襲で焼失し、戦後復活しなかったとなっている。
事実は少し違っていた。
はじめ、目星を付けていた辺りを探して回ったが全くもって分からなかった。
昔風の喫茶店があったからそこに入り、コーヒーを飲みながら年配(団塊年代か?)マスターに調査をかけた。
マスターは「宝亭」のことはそんなに詳しく知らないらしく、80近い男性客にも聞いてくれた。
そうしたらこうである。
元々パン職人だった井上浅五郎は明治15年麹町三丁目に 弁当屋を開き、次いで、明治17年平河町に洋食屋を始めた。これが「宝亭」であり、この「宝亭」から有能なコックが輩出し、全国に散らばっていったと伝えられている。
【宝亭跡地変遷】
「宝亭」→戦後米軍接収(ダンスホール)→相互第六ビル→三信平河町ビル(10階)
戦後まもなくのダンスホール時代、子供だった美空ひばりも来て歌ったそうであるが、定かではない。
戦前の「宝亭」時代から5階か6階建てのビルだったので、空襲で周囲の家は燃えても「宝亭」は鉄筋コンクリートだったからほとんど焼失を免れた。
それで米軍に接収され、ダンスホールとして利用されたとのことであった。
写真は現在「宝亭」跡地にある三信平河町ビル。夕方だったためちょっと薄暗い。

  • [32]
  • 神田淡路町「松栄亭」について

  • 投稿者:高Sくん
  • 投稿日:2013年12月 5日(木)10時39分18秒
  • 返信
 
先日、九州から友人が上京して来た。
朋あり遠方より…。
聞けは、夕方4時から天草の中学校同級会を錦糸町でやるという。
関西、九州、天草、全国から東京に集合し、今は廃校となった天草の中学校同級会で盛り上がり、翌日はスカイツリー見学をする企画らしい。
ランチを、文豪夏目漱石ゆかりの神田淡路町西洋料理屋「松栄亭」に行き、ともにした。
名物の洋風かき揚げを食べながら暫し歓談。
松栄亭4代目の話もお聞きした。
昭和44年5月15日発行の東京天草郷友会会報第1号に掲載された「戦前の天草郷友会」で、明治44年、神田淡路町「宝亭」という西洋料理屋において竹添進一郎を中心に中井励作や渡辺国重等が幹事を務め、郷友会が開催されたとの記録がみられると、今回も(実は2度目)4代目に問うてみた。
松栄亭は明治40年創業、神田淡路町界隈で3度転居しているが、神田淡路町には宝亭という洋食屋はない。かつてもなかった。
初代店主堀口岩吉が麹町の宝亭で仕上げたコックだった。そのことが何かの間違いで神田淡路町宝亭となったのではないか。
松栄亭は、宝亭を名乗ったことはなく、創業時から松栄亭だそうである。
今回も前回と同じ、一貫した説明だったが、実は新発見もあった。
日本の西洋料理の草分け、麹町「宝亭」は、第二次世界大戦の東京大空襲で燃え、戦後復活しなかったそうである。
このことは初耳だった。
「宝亭」と思しき「松栄亭」前での写真。

  • [30]
  • Re: 竹添井井研究第一人者との面談報告に安堵

  • 投稿者:河童
  • 投稿日:2013年11月30日(土)14時09分44秒
  • 返信
 
トニーさん
先般の天草放浪記??の中に竹添井井先生に関連する記事がなく心配していました。
これで忘れ物が戻りしました。

>>29
> トニーは先月、天草に旅した。
> 天草に入ったら、先ず成すべきことがあった。
> それは、竹添井井研究の第一人者、上天草市役所側で、司法書士事務所を構えて居られるF先生にお会いすることである。
> 初めての面談にも拘らず、時間をじっくり割いて、先生は竹添井井の幕末から明治に掛けての活動、その頃の天草のことを語られた。
> 実にゆったりしたもの静かな口調、ひと口に言ってインテリである。
> 先生には竹添VS李鴻章の筆談コピーをいただいたり、勝海舟、嘉納治五郎の掛軸の写真印刷、竹添井井に関する貴重な資料をたくさんいただいた。
> 資料を頂戴したお礼、今後も引き続きご教授いただきたい旨のお願いをして事務所を辞した。
> 以上、簡単ながら竹添研究第一人者天草のF先生との面談報告を終わる。

  • [29]
  • 竹添井井研究第一人者との面談報告

  • 投稿者:トニー
  • 投稿日:2013年11月22日(金)19時19分36秒
  • 返信
 
トニーは先月、天草に旅した。
天草に入ったら、先ず成すべきことがあった。
それは、竹添井井研究の第一人者、上天草市役所側で、司法書士事務所を構えて居られるF先生にお会いすることである。
初めての面談にも拘らず、時間をじっくり割いて、先生は竹添井井の幕末から明治に掛けての活動、その頃の天草のことを語られた。
実にゆったりしたもの静かな口調、ひと口に言ってインテリである。
先生には竹添VS李鴻章の筆談コピーをいただいたり、勝海舟、嘉納治五郎の掛軸の写真印刷、竹添井井に関する貴重な資料をたくさんいただいた。
資料を頂戴したお礼、今後も引き続きご教授いただきたい旨のお願いをして事務所を辞した。
以上、簡単ながら竹添研究第一人者天草のF先生との面談報告を終わる。

  • [28]
  • 竹添井井VS李鴻章の琉球(尖閣列島含む)問題交渉後編

  • 投稿者:トニー
  • 投稿日:2013年 9月26日(木)02時17分34秒
  • 編集済
  • 返信
 
明治16年(1883)年3月、日本政府は来る4月29日で満期になる日清修好条規(条約に同じ)付属の貿易規制の改定交渉を清国に申し入れた。竹添井井はこの頃すでに朝鮮弁理公使として京城公使館に赴任(1月7日)している。
5月、清国の駐日公使は井上馨外相に、日本はこの改約と琉球問題とを一体にして交渉するかどうかを問うてきた。それに対して井上外相は、次のように答えている。
琉球問題は、「前年宍戸公使をして貴政府と和衷を以て御商議に及ばせ候処、貴政府にて御聴納(聞き入れる)これ無きより、事すでに9分を欠き居候」、この問題と満期になった貿易規則の改定とはまったく別のことであり、当然、別に交渉すべきであると我が政府は考える(『日本外交文書』第16巻「日清修好条規通商改正に関する件」)。

井上外相ないし日本政府も、琉球問題はまだ最終的には解決していないことを認めて。言いかえれば、明治13年(1880)に日清両国代表が議定した分島・改約案に、清国政府がすみやかに調印しないので、以後の交渉を日本側が打ち切ったことをもって、そのときから琉球全島が日本の独占となったと確定したのではない。だから琉球問題はまだ解決していない。まだ交渉をすべき懸案であると、日本政府も認めていた。これが中国の意見なのである。

その後、日本は日清日露の戦いに勝利し、太平洋戦争に敗れる。サンフランシスコ講和条約でアメリカ、イギリスなど連合国側(約50ヶ国)の言いなりにさせられ、無条件に降伏した。
植民地政策で勝ち取ったものはすべて返したはずなのに、一度だって直接は負けたことの無い、中国・韓国に勝利国面をされ、それでも「日本が悪うございました」と、ことある毎に天皇陛下や国の代表が詫びに詫びて頭下げても、余程植民地にされたことが悔しいのだろう。68年を経た未だに許そうとはしないのである。
本来であるなら1951年9月の「サンフランシスコ条約」が日本国と連合国諸国との戦争終結のため、締結された平和条約であるはずなのに、今ごろになって中国は、「あのとき中国は参加しなかったのであるから批准する必要はない」。なんて中国外交部の洪磊(こうらい)報道官(副報道局長)は(2013/6/1)世界に向かっていけしゃあしゃあと述べるのであるから驚きだ。テレビにしょっちゅうでてくる洪報道官は余りにも堂々と平気で喋繰るものだから世界中の者が騙されそうになる。
あのとき中国国内は、毛沢東軍VS蒋介石軍の内戦状態であって、参加しなかったのではなく、本当は参加できなかったのである。恥しいが国としての体を成していなかったのが本当のところ。「尖閣列島は日清戦争で窃かに日本に掠め盗られ、台湾は戻ってはきたが、公然と奪われた」。と、師日くのだから論語が泣く。
「中国こそ台湾、チベットを武力で公然と奪い、植民地化し、自国領土にしているではないか」、と言いたくなる。一生逃亡しなければならないダライ・ラマ14世こそ本当にかわいそうである。そのうちに「沖縄は元々は中国の属国だった。だから沖縄は中国の領土だ」、と言い出すのではないかとそれが心配だ。

東京天草郷友会の祖、竹添井井が大きく関わった琉球問題と朝鮮問題、奇しくも現在の中国、韓国との領土問題に繋がっている訳だが、この領土問題、日本は一歩も引けないし、引いてはならない。多少の小競り合いはあったとしても戦争にだけは進展しないよう皆願っている。竹添井井も護国寺のお墓からそのように願い、祈念されてることだろう。  了


http://絵


  • [27]
  • 竹添井井VS李鴻章の琉球(尖閣列島含む)問題交渉中編

  • 投稿者:トニー
  • 投稿日:2013年 9月24日(火)05時26分16秒
  • 編集済
  • 返信
 
≪無主地先占の法理≫
現在、なぜ中国は尖閣列島は自国の領土だと言い張るのか。竹添井井と李鴻章の領土交渉内容の前に、どうして我が国と意見が食い違い、再論するのかをおさらいしたい。

中国の言い分はこうである。中国が明の時代、1534年、中国の福州から琉球の那覇に航した、明の皇帝の第11回目冊封使陳侃(ちんかん)の『使琉球録』によれば、その年5月8日、福州の梅花所から東南に航し、台湾の沖合で東に転じ、10日に釣魚嶼などを過ぎた。「10日、南風甚だ迅く、舟行飛ぶが如し。然れども流に順ひて下れば、甚だしくは動かず、平嘉山を過ぎ、釣魚嶼を過ぎ、赤嶼を過ぐ。(中略)11日夕、古米(くめ)山(久米島)を見る。乃ち琉球に属する者成り。夷人(冊封船で働いてる琉球人)船に鼓舞し、家に達するを喜ぶ。」との古記録がある。この様な古い明代航海日誌は他にもある。

次に日本の江戸時代の先覚者も中国領と明記しているではないか、と言うのも中国の言い分。それは添付の古地図を見ながらこのまま読み進んで頂きたい。仙台藩士林子平の『三国通覧図説』の付図である。この子平の書いた地図は福建省福州から那覇にに至る航路を南北2コース描き、その南コースの東から西に花瓶嶼、彭隹、釣魚台、黄尾山、赤尾山を連ねて書いてあるが、これらの島はすべて中国本土と同じピンク色に塗られている。

これが中国の言い分であり、日本人は歴史を知らないなどと本気モードで言ってるのである。尖閣諸島に名前を先に付けたから、それと江戸時代の日本の先覚者も尖閣諸島は中国と認めてる。概ね中国の言わんとしているのは以上の2点である。中国は国際法上とはまったく関係ない古い航海日誌や古記録、地図を引っ張りだして紐解いてるに過ぎない。

それでは国際法上はどうなってるのか。「15世紀末のコロンブスの新大陸発見の時代から18世紀初頭までは、新しい陸地や島を発見した場合、そこを自国の領土であると宣言し、国旗を掲げたり、十字架や標柱をたてたりすると、それで領土を取得したことになるとされた」。然し、19世紀には、それだけではだめで、「多くの国によって、先占は土地を現実に占有し、支配しなければならないと主張され、それが諸国の慣行となった」。「19世紀後半には、国際法上で先占は実効的でなければならないことが確立した」。「先占が実効的であるというのは、これを支配する権力をもうけることである。そのためには、或る程度の行政機関、秩序維持の警察力、いくらかの兵力も必要である」。16~18世紀には、新たな土地を「発見」したものがその領有権者であった。この「法理」を適用すれば、尖閣諸島は中国領以外の何ものでもない。スペイン人、ポルトガル人がアメリカやアジア、アフリカ大陸、太平洋の島々を、次から次に自国領土=植民地化しているうちは、「発見優先」原則が通用していた。そこにオランダ、イギリスが競争者として立ち現われ、やがてフランス、ドイツも競争参加に加わり、次第にスペイン、ポルトガルに優先していくとともに、「先占の法則」が「国際法」になった。日本政府は明治29年(1896)4月1日、勅令13号による郡制の沖縄県施行により、尖閣諸島を八重山郡に編入後国有地にした。

琉球問題に先立ち、日本政府は明治8年(1875)5月、ロシアとの千島・樺太交換条約に調印し、幕末以来の樺太における日露の領界争いに、日本の大譲歩で決着を付けた。日本は樺太南半部の権利を放棄し、その代償として択捉島までだった日本領と合わせて、千島全島を日本領とした。

更に政府は明治9年(1876)10月、小笠原諸島を日本政府の管轄とすることを諸外国に通告した。同島については、イギリス、アメリカが、幕末、無主地の先占による領有権を主張し、日本と対立した。近代国際法理論のみから言えば英・米の主張にも、日本に劣らないだけの根拠があったので英・米両国があくまでもその権利を主張すれば日本が小笠原諸島全部を独占するのは不可能だった。アメリカ政府は遠隔の地の領有権主長を全面的にとりやめ、日本を支持した。イギリスはなおその権利を主張したが、全アジア政策を考えると日本と対立するより、ここは譲ってイギリスの見方にひきつけ、日本を利用しようと考え、遠まわしの方法で認めたのだった。イギリスのアジア政策次第では小笠原も危なったのである。

さて、明治15年(1882)、その後の竹添井井と李鴻章の琉球問題交渉である。宮古・八重山2島を割与するだけで李が満足するなら、「土地の儀に付いては当方に些かも異議これ無く候」、また琉球王を立てると言うのが、日本の割与した2島に、清国政府が旧琉球王尚泰の親類または子を立てて王とすると言うことなら、これも「別に異議なし」。然し、日本がいったん廃王した尚泰その人を再び日本で王に立てることはできない。
この後の竹添と李との非公式話し合いの進行状況は分からないが、結果からすると、井上外相の考えで再び日清の正式交渉にはならなかったことははっきりしている。

続く

http://絵


  • [26]
  • 竹添井井VS李鴻章の琉球(尖閣列島含む)問題交渉前編

  • 投稿者:トニー
  • 投稿日:2013年 9月15日(日)16時46分42秒
  • 編集済
  • 返信
 
≪琉球処分≫
明治7年(1875)7月、日本政府は、琉球「藩」王、清朝との朝貢・冊封関係をきっぱり断つことを厳命し、かつ、王の上京と「藩」政の大改革を強要した。また琉球王らの反抗を鎮圧するため、土地を強制収用して熊本鎮台(後の師団)の分営を設けた。琉球王や士族らは、これに必死に抵抗し、ひそかに清朝に援助をもとめた。清朝は、日本政府に清国「属邦」(琉球)の朝貢を禁じたことについて、再三抗議してきた。
この2年前、明治5年10月、西郷隆盛ら征漢派は敗退し、既に明治太政官政府を下野している。
日本の「琉球処分」に対し、琉球王国を数百年来の属国とみなしていた清国はしつこく抗議していた。
明治11年(1979)4月、日本が完全に琉球を併合すると、5月清国政府は北京駐在の日本公使宍戸環(たまき)に、日本の処置は承認できないと抗議してきた。これより琉球の領有について、日清両国の一年半にわたる交渉がはじまる。
この間たまたま旅行中のアメリカ前大統領グラントが清国にやってきた。清国はグラントに調停を依頼。
【清国側が出した琉球三分案】
●北部奄美大島は日本領
●中部沖縄本島を主とする群島は、元の琉球王の領土として王国を復活させる。
●南部宮古・八重山群島は清国領とする。

日本側はこれを一蹴し、日本案を出す。
【日本側が出した琉球2分案】
●通商の便宜を図り、清国内地通商の自由を日本人にも一律に均霑(きんてん)させる。そのことを日清修好条約の条文に追加する。
●その代わりに宮古・八重山群島は清国領とし、沖縄群島以北を日本領とする。

この頃、清国はロシアとの間に、伊犁(いり)地方で国境紛争中だったため、清国総理衙門(がもん)では、琉球問題は日本に譲歩して早く解決し、日本との関係を親密にして大国ロシアに対処する方が得策であるとの意見が有力になった。その結果、明治12年(1880)10月清国総理衙門は宍戸公使と、日本案による琉球2分島・改約の条約案を議定した。

ところが、この後で、清国政府内で、ナンバーワン実力者の北洋大臣李鴻章が強硬に反対したため、総理衙門の清国代表は議定した条約案に調印できなくなった。翌1881年1月5日、宍戸は怒り、「貴国は我が好意を踏みにじり、すでに両国代表間で議定したにも拘らず自ら棄てたからには、今後永遠に、我が国の琉球処置について貴国の異議は受けいれない」との文書をたたきつけ、憤然として帰国した。

琉球分島問題の日清交渉はこのようにして決裂したが、日本政府はこのときはまだ、宍戸公使が清国にたたきつけた文書のように、今後琉球問題についていっさい清国に取りあわないとの方針を定めていたわけではなかった。宍戸公使帰国後、外務卿井上馨は、李鴻章と知己である天津駐在領事竹添進一郎に、李鴻章の腹の中をさぐるよう指示した。

現在、話題の尖閣問題につながっていて実に興味深い場面です。
今回の琉球問題は、河童さんのお兄さんが生れた台湾の澎湖諸島の砲台にもつながる重要な領土問題なのです。

続く


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  • [25]
  • 澎湖列島

  • 投稿者:河童
  • 投稿日:2013年 9月14日(土)10時31分12秒
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トニーさんの8月29日 NO 21の中に≪1894年の日清戦争で勝利し・・澎湖列島(と多額の・・)≫とあります。この記事を見る迄日清戦争の戦利島とは知りませんでした。
場所はNHKの天気予報の時、東アジアが出るとき(夜7時)がありますが、台湾と中国の間に米つぶにたいな点があります。ここです。台湾の高尾から連船があったようです。

実は私の母方の祖父は昭和4年から18年までこの島「澎湖列島」の鎮守・海軍工廠の事務の責任者でした。
母は4-5年暮らし女学校の関係で佐世保に住んで行き来したようです。ここで生まれた叔父・叔母は健在です。兄もここで生まれました。
母達が卒業した学校の同窓会が数年前まであり連絡があり私以外の兄弟は佐世保の叔父達と行きました。
官舎の庭にはバナナの木があり熟したバナナがいつでも食べれた。貧しい天草の家にバナナを買った時思い出して話して呉れました。青かバナナを船底で熟したバナナは味が違うと言っていました。佐世保に帰る時青かバナナを持ち船に乗ると着いた時熟すと言っていました。私にはどんな味か判りません。
私の血筋は父方は天草。母方は赤穂・佐世保経由です。

この談話室は勉強になります。
昨年からの姫戸への引揚者の方台湾のどこからか考えると面白いです。対応できませんけど。



  • [24]
  • 発見!!「竹添井井」VS「李鴻章」の筆談文&小田原竹添家訪問計画について

  • 投稿者:トニー
  • 投稿日:2013年 9月 5日(木)16時42分5秒
  • 編集済
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上天草市(大矢野)Y氏から、竹添井井と李鴻章が筆談したその断片写しを竹添研究会宛て郵送いただきました。何にしろ、当たり前ですけど漢字ばかりです。この前もY氏から頂いた資料の勝海舟の書を読めませんでした。こんなときに誰しも思うんですよね。もっと勉強しとけばよかったな~と。今から勉強してたのでは遅いんで、どなたか漢文得意な方にお願いします。この筆談文を訳してください。

竹添家は今でも小田原市南町三丁目(旧十字四丁目)に在ります。竹添家を訪いたいのであるなら、小田原で現地案内してくれる方を紹介しあげてもよかよ。と、同じく大矢野のY氏から申し入れを受けています。残暑が過ぎてもう少し涼しくなったら小田原の竹添家訪問を計画します。現在は竹添井井の次女須磨子(夫:嘉納治五郎)の長男(養子:履信)の長男(信之)が居られます。信之様は天草に行かれたこともあり、無碍にはされないと思います。東京駅から小田原駅までは東海道線で79分(1450円)です。小田原に着いたら♪エッサ♪エッサの「お猿のかごや」に乗って、小田原提灯ばぶら提げて「ソレヤットコ ドッコイ ホイサッサ」皆で行きましょう。先様と連絡取れましたら募集を掛けます。よろしくお願いしますでございます。

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  • [23]
  • 竹添井々関係の書

  • 投稿者:トニー
  • 投稿日:2013年 9月 1日(日)22時34分45秒
  • 編集済
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今回は気分を変えて竹添井々関係の書を3幅紹介します。繋がりがあったお三方、三者三様の個性ある見事な書幅です。ゆるりとご覧ください。

①竹添井々68歳のときの書
「玉成」の二字を大書し、天草中学に贈ったとありますが、真に素晴しい!!

②嘉納治五郎の書(書号:進呼齋)
竹添井々と、妻亀子とのあいだには二女がいた。長女の松子(眞津子)は夭死し、次女の須磨子は、嘉納治五郎に嫁いだ。嘉納は柔道家でしかも講道館の創始者であって、教育家でもあった。彼は帝国大学(東大)を出てのちに五高、一高、東京高等師範(現筑波大)の校長をつとめるなど、教育会に多くの足跡をのこした人でもあった。「自他共栄」は明治15年講道館立ち上げのとき掲げた言葉といわれているが、書号から推して大正時代嘉納60歳代の書と思われる。

③勝海舟の書
明治21年夏頃竹添は墓参のため天草に帰郷する。上村馬場の吉田宗徳氏に外祖父母の墓の建碑を依頼。そのお礼として海舟の書を贈った。一般に、海舟の書は上手すぎて読み難いといわれている。この書も何と書いてあるのか解からない。どなたか読める方(できたら意味も)居られたら教えて頂きたい。よろしくお願いいたします。


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  • [22]
  • 白樺文学館に寄贈しました

  • 投稿者:河童
  • 投稿日:2013年 9月 1日(日)08時28分25秒
  • 返信
 
千葉県我孫子市は文豪。志賀直哉や武者小路実篤等の別荘跡があり、関連した資料を集めた処です。トニーさんから頂いた竹添先生関連のパンフ等寄贈しました。特に嘉納治五郎の別荘もあり我孫子では有名です(残念ながら竹添先生は無)竹添・嘉納両家族写真はこの館にはなく大変喜ばれました。
又嘉納治五郎の書「自他共栄」も初めて見るとの事でした。
特に 履信さんがどのような顔だったかとか竹添家との繋がりが明確になったと学芸員さん(鹿児島出身)に喜んで頂きました。
勿論、切り口は「東京天草郷友会」の創始者・次女は嘉納治五郎の奥さんから
話を進めました。
竹添進一郎は東京で「勝 海舟」と会う下りがありますが、苓北町富岡城跡には
勝 海舟の銅像があります。長崎・天草・鹿児島は船で渡る近道です。
詳しくはわかりません。どなたか研究して下さい。

  • [21]
  • 大漢学者で詩人の外交官竹添井々と沖縄問題

  • 投稿者:トニー
  • 投稿日:2013年 8月29日(木)18時56分33秒
  • 編集済
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上天草市(大矢野)のY氏より、東京天草郷友会の祖竹添進一郎(井々)に関する貴重な資料・写真をいただいていました。忙しさに紛れてしまい、少々スレッド紹介が遅くなりましたことお詫びいたします。いつ投稿されるかいつ投稿されるかと楽しみに待っておられる多くの竹添研究者がいらっしゃると或る方にお聞きしましたので、そんなにいつまでも引き延ばせないなぁと思いながらも今日にいたってしまいました。申し訳ありません。それではエピソードなど交えながら一部を紹介します。

明治13年(38歳)竹添進一郎は天津領事に命じられ、前年に起きた琉球事件(沖縄帰属問題)に関して清国李鴻章との交渉を任されます。この頃の清国との正式な外交交渉は筆談による通訳なしのやり取りでした。政府が漢学者竹添進一郎を任命したのはそこにあったようです。
また、李鴻章はかねてから竹添の識見豊かな漢詩文をみて称賛していました。明治11年、清国北部諸省が連年不作で大飢饉に見舞われた折、渋沢栄一、益田孝(三井物産初代社長)ら財界人が義援金を募り、これを義援米6000余石に換えて総督李鴻章に届けた日本政府使者も竹添進一郎でした。二人はお互いを尊敬し、腹蔵ない交情を示し合う間柄だったのです。時の太政官政府の竹添起用がよく理解できます。
数次に亘る交渉のすえ、日本領は沖縄本島まで。先島諸島(宮古島及び八重山諸島、もちろん尖閣も含む)は清国に譲る。これで日本側としては概ね交渉妥結のはずでした。
ところが、李鴻章は最後の土壇場になって沖縄本島まで清国領とする、と言いだし交渉は決裂してしまいました。
その原因は1871年(明治4年)廃藩置県に反対して沖縄から追われ、清国に渡っていた琉球王国時代の清国贔屓元高級官僚らが「先島だけでは駄目、沖縄本島も…。」と李鴻章に泣きついたからだと言われていますが、はっきりしてはいません。
とにかく、李鴻章が欲を出さないで、妥結していたならば先島諸島は清国領となり、その後1894年(明治27年)の日清戦争で勝利し、一旦は遼東半島、台湾、澎湖列島(と多額の賠償金)を得た日本ですが、結局、太平洋戦争で負け、1951年(昭和26年)サンフランシスコ講和条約で台湾と一緒に先島諸島も中国領として返還する憂き目でした。
今頃、尖閣列島領土問題など全くないと言うのは我が国ではなく中国側の発言だったでしょう。それどころか奄美群島を返還しろ、元来の日本の国土は種子島、屋久島までだと軍事的圧力を掛けていたのではないでしょうか。ぞっとしますね。
大先生には失礼な言い方ですが欲張り爺さん(李鴻章)のお陰ではないでしょうか。この時、琉球事件問題が決裂したから現在の沖縄があり、尖閣列島が我が国にあるのです。中国が未解決と言ってるのはここら辺を言ってるのだろうと思います。最も、サンフランシスコ講和条約時、中国は内戦状態(蒋介石VS毛沢東)にあり、国の体を成してなく、国の代表者すら出せなかったのです。歴史にifはないのですから今更何をか言わんやなのです。結果として大漢学者で詩人の外交官竹添井々は我が国に幸運をもたらした男、ラッキーボーイだったことになります。

この項は琉球事件に関わった天津領事時代の竹添進一郎に留めおき、次回の朝鮮事変(①明治15年壬午軍乱、②明治17年甲申の変、③明治27年東学党の乱=甲午農民戦争)、日清戦争前夜の竹添朝鮮弁理公使、公使退任後の竹添進一郎に繋ぐこととします。次回もエピソードを拾いながらの興味津々投稿を楽しみにしていてください。


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  • [20]
  • 大矢野の銅像に拝礼しました

  • 投稿者:河童
  • 投稿日:2013年 8月18日(日)20時52分7秒
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8月9日帰省の途中上天草市役所へ寄り場所を聞き訪れました

  • [19]
  • 竹添井井履歴年について

  • 投稿者:トニー
  • 投稿日:2013年 7月22日(月)15時41分39秒
  • 返信
 
竹添井井の生年や履歴年が各資料により、若干まちまちです。
●天保13(1842)年生まれ
●明治26(1993)年帝国大学文科教授就任
●明治28(1995)年9月帝国大学教授退任
●大正6(1917)年3月31日76歳にて死去
上記は確認しましたので正しい様です。間違いないと思います。
上天草市の研究者に大矢野生家跡の写真や興味深い資料送付をお願いしています。
届き次第投稿いたしますので竹添井井研究会の皆様楽しみに待っててください。

  • [18]
  • 天草出身の初代代議士小崎義明氏(有明町出身)

  • 投稿者:ごほんガゼ
  • 投稿日:2013年 7月14日(日)19時32分59秒
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天草出身の初代代議士小崎義明氏(有明町大浦)のことが「広報有明・昭和43年10月1日号」にありました。後ほど、入力出来次第アップしたいと思います。

  • [17]
  • 中井励作について

  • 投稿者:月光仮面
  • 投稿日:2013年 6月22日(土)23時02分13秒
  • 編集済
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東京天草郷友会のもう一人の祖である中井励作について、インターネットで検索しましたが、ヒットが少ないですね?
コトバンクには、以下の表記がありました。
どなたか、詳しいことをご存知であれば教えてください。

1879-1968 大正-昭和時代前期の官僚,実業家。
明治12年1月3日生まれ。農商務省にはいり,特許局長,山林局長をへて農商務次官。大正13年官営八幡製鉄所長官となる。昭和9-14年民営の日本製鉄の初代社長。成城学園理事。昭和43年2月18日死去。89歳。熊本県出身。東京帝大卒。著作に「鉄と私 半世紀の回想」。

  • [16]
  • 天草の竹添家捜しと写真について

  • 投稿者:トニー
  • 投稿日:2013年 6月20日(木)15時06分38秒
  • 返信
 
天草の竹添井井(進一郎)生家を調べました。上天草市役所に問合せたら生家はないとの結論でした。大矢野上村の生家が在った場所は何も無く今は更地だそうです。墓は東京の護国寺に在ると教えてくれました! 竹添進一郎は天保12(1841)年生まれとの資料もあるが?と質問したら、上天草市では天保13(1842)年生まれになってるそれが正しいと思ってますでした。
先日、竹添進一郎先生に初めてお目にかかりました。角刈り、細面、私は夏目漱石や秋山好古をイメージしてましたから少し想像と違いました。紋付着物姿写真の竹添先生は関西系某組の怖ーい切れ者大親分に似てます。それでも郷里の偉人であり、大先輩。何回かお会いする度に親しみが湧いてくるから不思議なものでございす。写真を載せてくださった月光仮面さんにお礼を言わなければなりません。月光仮面さん有難うございます。これからもよろしくお願いします。

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  • [15]
  • もうひとつの竹添先生をたたえる碑について

  • 投稿者:月光仮面
  • 投稿日:2013年 6月20日(木)14時30分9秒
  • 返信
 
皆さんはご存知だと思いますが、上天草市大矢野町運動公園に竹添進一郎顕彰碑があります。
昭和29年熊本県教育委員会より、近代文化功労者として顕彰されたことを記念したものだそうです。
銅像と顕彰碑が併設されています。(写真)
平成10年に作られたとのことです。
写真は、読みにくいので、顕彰碑には、以下のように記載されています。

頌徳碑文

 文学博士・竹添進一郎先生は、大矢野町大字上馬場の医師・小田順左衛門と二神家出の美加の一子として、天保13年(1842)に出生。
 幼少より学を好み、3歳にして経書を朗読し、神童の誉れ高く、当年15歳熊本に出て、木下韡村(いそん)塾に入門。天性の学才は冴え、井上毅らと木下門下の四天王と称される。
 22歳のとき細川藩に士分として召しだされ時習館訓導を勤める。
 27歳、藩命により京都、奥州、江戸を探訪する。特に江戸では時の英傑・勝海舟を訪ね、国家大経を論じその見識の深さに海舟を驚かしめ、以後親しく交わる。
 明治4年廃藩置県となるや、先生は城下寺原瀬戸坂に開塾、転じて現玉名市伊倉町に遜志斎を開き子弟の訓育にあたる。名を慕い学ぶものが多かった。
 八年、塾を閉じて上京、勝海舟と再会し、海舟らの推挙により特命全権大使森有礼の随員として清国に渡る。次いで中国大陸中部以北の奥地を踏破し、名著≪桟雲峡雨日記並詩草≫を著し、日本国内はおろか中国文人等の絶賛を受けた。
 明治13年より清国天津領事、朝鮮弁理公使を歴任し、明治18年朝鮮弁理公使を退任、引き続き無任所弁理公使として在任中、時の文部大臣・井上毅の要請により、明治26年10月東京帝国大学教授に就任。
 明治28年(54歳)退官し、同年相州小田原に閉居、かねて念願の読書著作に専念。二十余年をかけての大著≪左氏会箋≫により帝国学士院賞と文学博士の称号を授かる。
 明治35年皇太子嘉仁殿下(大正天皇)を小田原に迎え拝謁、その夜、特に召されて前席講演ををなし、書を閲覧に供したことは特筆すべきことである。
 又先生の次女須磨子は、講道館柔道の始祖・加納治五郎に嫁ぎ、その長男履信が竹添家を継いでいる。
 大正6年3月31日、76年の生涯を全うし、政府より従三位勲三等を贈られた。
 熊本県教育委員会は昭和29年近代文化功労者として顕彰し、その賞状末記に「天下の碩学と称せらるるに至ったことは、洵後進を奮起せしむるものである」と記してある。
 先生逝き80年、恰も世上混沌たるこの時、先輩諸賢意思を継承し、先生の遺訓と遺徳を偲ぶよすがとして内外の有志の賛同と協力を得て、茲に頌徳碑の完成を見るに至ったことは誠に意義深いものがあり、望外の慶びとするところである。(川上昭一郎記す)

 平成10年3月吉日
    竹添進一郎先生顕彰碑建立期成会
           会長 何川一幸

  • [14]
  • 朝鮮独立党クーデタ(甲申政変)について

  • 投稿者:月光仮面
  • 投稿日:2013年 6月18日(火)12時57分49秒
  • 編集済
  • 返信
 
竹添進一郎が朝鮮弁理公使時代に発生した朝鮮独立党クーデタ(甲申政変)について、YouTubeに当時の時代背景も含めて、掲載がありましたので、紹介します。
外交官の竹添信一郎が、兵隊を指揮しなければならなかったことは大きな重圧があったのではないかと思います。
このクーデタによる新政権樹立は、清国の介入により、3日間で崩壊してしまいますが、成功していたら、朝鮮の歴史、竹添信一郎のその後の人生も、また変わっていたかもしれません。今から約130年前の出来事です。




  • [13]
  • 双殉行の解釈について

  • 投稿者:月光仮面
  • 投稿日:2013年 6月17日(月)23時12分40秒
  • 編集済
  • 返信
 
「双殉行」は漢文で書かれているため、小生みたいな凡人は読めません。
そこで、インターネットで解釈していただいているのを見つけましたので
下記に転載します。

「双殉行」<大意>
明治十年西南役に際し、薩軍の攻撃は急で、戦雲は熊本城を圧し、今にも陥ちんとした。
救援に赴いた乃木連隊は敵大軍の夜襲にあい乱戦中、河原林旗手は戦死した。
連隊旗は本来臣がおお預かり申し上げたのであるからそれを賊軍に奪われた罪は重大である。
これ臣のまさに死すべき一つの罪である。
旅順の巨砲千雷の如く鳴り響き、骨は砕け、肉は飛んで、血の雨が腥く降りそそぐ
この激戦を敢えてした為にわが部下であった二万の子弟は戦死した。
この多大の犠牲を払わしめた自分は、彼等の父兄に会わせる顔もない。
これは臣まさに死すべき罪の二である。
二重橋から青山の大通りまでの行幸道路には万国の使臣が威儀を正して整列している。
その中をしずしずと進ませ給う御轜車、それを曳き奉る牛の歩みもためらいがち。
御轜車の金輪が、ゆるくきしって発するその七色の哀音は、さながら咽び泣くような響きである。
御轜車御出発の弔礼砲が響き渡ると、現生に於ける臣下の務めも今はこれまでと、
自ら腹を切り、喉を刺したが、古来の形式に則したものであった。
その傍らには夫人が、膝も崩さず俯伏して居られるが白鞘の短刀で三たび胸を刺し、
そのか弱き手は紅に染まっていた。
密封した遺書はまだ墨の後もにじんでいた。これを読むと己の似を責め世を誡める情が最も痛切で、
一言一句すべて将軍の情熱が迸ったもの、その忠誠には鬼神も哭し、天地もまた泣いた。
ああ、将軍は一身を捧げて君に殉じて、臣下としての節操を固く守り遂げ、
夫人は生命を捨てて夫に殉じて、妻としての道を全うされた。
この忠烈の魂と貞淑の霊とは、永久不滅で、未来永劫に桃山御陵に侍し奉ることであろう。

竹添井井にとっても、年下の乃木大将の殉死は、自分の朝鮮での経験を顧みても
大きな衝撃であったのではないかと思います。

また、竹添進一郎の写真を動画の中より見つけましたので、下記に添付します。

注)掲示板での個人での書き込みを改名しました。(by koyama)

  • [12]
  • 竹添井井を巡るツアー報告

  • 投稿者:小山
  • 投稿日:2013年 6月16日(日)18時41分25秒
  • 編集済
  • 返信
 
すでにトニーさんが感想を書いていただきましたが、私も報告と感想を書かせていただきます。


天草郷友会の祖と言われる「竹添進一郎(井井)」の文学碑と護国寺のお墓の墓参り、最初の郷友会が
開催されたと思われる宝亭(松栄亭)での昼食を以下のスケジュールで実施しました。
●集合日時:平成25年6月15日(土) 10時~15時
●《コース》
①竹添井井文学碑(乃木神社)・移動 → ②竹添井井墓参り(護国寺)・移動 → ③松栄亭(神田淡路町)・解散

①竹添井井文学碑(乃木神社)
乃木神社では、竹添井井先生が大正元年に作られた「双殉行」の文学碑があります。
「双殉行」は、 明治天皇大葬の9月13日夜、乃木 希典(写真)が妻・静子とともに天皇の後を追い、自刃(享年62)したことを歌ったものです。乃木将軍も西南戦争で、軍旗を西郷軍に奪われたのを気にし、いつも死に場所を探していたといい、殉死をするとはすごい方であると、さらに奥様もあとを追うとは、改めて感動しました。

双殉行 井々竹添光鴻 大正元年作

戦雲壓城城欲壊    腹背受敵我軍負
聯隊旗兮臣所掌    爲賊所奪臣罪大
旅順巨砲千雷轟    骨砕肉飛血雨腥
二萬子弟爲吾死    吾何面目見父兄
靑山馳道連朱闕    萬國衣冠儼成列
靈輿肅肅牛歩遲    金輪徐輾聲如咽
弔砲一響臣事終    刺腹絶喉何從容
旁有蛾眉端坐伏    白刃三刺繊手紅
遺書固封墨痕濕    責躬誡世情尤急
言言都自熱腸逬    鬼哭神恫天亦泣
嗚呼以身殉君臣節堅  舎生從夫婦道全
忠魂貞靈長不散    千秋萬古侍桃山

この文学碑は、昭和56年(1981)7月 肥後史話著者 卯野木卯一良が寄進されたとのことが記されていました。
乃木神社には、乃木将軍の資料館と、隣には、乃木将軍の自宅がそのまま残されており、見学しました。
また、当日は、偶然結婚式にも遭遇し、雅楽の響きなか、拝殿する新郎新婦をみて、ほほえましい気分になりました。

②竹添井井墓参り
護国寺の中の1区画に、墓石に「雲帰」という墓標が書かれた竹添家のお墓があります。
裏側に下記のように記載されていました。
竹添亀子 大正5年6月30日 65歳没  (竹添井井の奥様)
竹添井井 大正6年3月31日 76歳没  (本人)
竹添履信 昭和9年9月14日 38歳没  (竹添井井の長男<男子がいなかったため、養子>)
竹添いち 平成5年4月22日 88歳没  (竹添井井の娘?)
参詣者で、お墓の周りを掃除し、お花と線香をお供えし、お参りをしました。

③松栄亭
100年以上前の「宝亭」を想像し、同店の名物で夏目漱石や池波正太郎も愛したという
「洋風かきあげ」をいただきました。
ダマネギとお肉を揚げたもので、調理するのに15分ぐらいかかるとのことでした。
昔は、この味が貴重だったのかもしれません。

この日は、梅雨の合間の晴れとなり、気温もグングン上がりましたが、有意義な時間を
すごすことができました。
参加いただいた皆様お疲れ様でした。

まだ、行ったことがない方も1度回ってみてはいかがでしょうか?


  • [11]
  • 竹添井井を巡るツアーの感想

  • 投稿者:トニー
  • 投稿日:2013年 6月16日(日)18時11分33秒
  • 編集済
  • 返信
 
ツアーの集合時間は乃木神社境内に10時。私は気持が逸ってしまい乃木坂駅に1時間程早く到着しました。境内の竹添井井文学碑は探したら直ぐに見つかり、時間が早いから神社内を3・40分程散策してから文学碑のあるところに戻ってみる事にしました。しばらくして文学碑のところに戻ってみると、それらしい人が2人。そこへまた1人、また1人と続々と参加者が集まってきました。竹添井井を巡るツアーは10時きっちりに(天草時間には関係なく)始まり、スタートから参加者の意識の高さと強い意気込みが感じられました。この日、乃木神社境内の文学碑、小石川護国寺のお墓、神田淡路町の宝亭と思しき松栄亭を巡るツアーは、参加者をすっかり百年前にタイムスリップさせ、郷友会の創始者竹添井井を研究する楽しい勉強会となりました。時代は幕末から明治維新となり、海外に雄飛した日本人は、清国、米国、英国、仏国、露国等強豪列国と(現在よりも)りっぱに渡り合い、侍だな~と感じさせます。この頃日本国を背負い、朝鮮国弁理公使として活躍した外交官竹添井井もまた、伊藤博文、榎本武揚、井上馨等と同じ日本近代国家形成に貢献したひとり。そんな近代国家日本形成の一翼を担った天草の偉人の墓に刻された「帰雲」にお参りし、ツアー参加者は恐らく全員、繁栄した今の日本があるのは先生達のお陰ですと感謝の念を胸いっぱいにされたに違いありません。そんな気持ちになった有意義な1日でした。

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  • [10]
  • Re: ツアーとお天気について

  • 投稿者:小山
  • 投稿日:2013年 6月14日(金)21時07分45秒
  • 返信
 
トニーさん
天気予報では、ご指摘のように、曇りのち晴れなので、降るとしたら神田あたりかもしれませんね。
傘は持参が必須かと思います。(数珠も)
参加者は、申告ベースでは
・トニーさん
・小岩の坊ちゃん
・河童さん(?)
・私
+アルファ
天草郷友会の祖・竹添井井の研究期待しています。
明日はよろしくお願いします。


  • [9]
  • ツアーとお天気について

  • 投稿者:トニー
  • 投稿日:2013年 6月14日(金)18時34分42秒
  • 返信
 
明日は15時くらいまで天気持ちそうです。降られるとしたら神田淡路町「松栄亭」をでる辺りからでしょうか?降られてもそんな大した雨ではなさそうです。ですから雨具は各自にまかせるということにいたします。明日あさ10時乃木神社に着いたら神社を取り囲むくらいの参加者(5・600人?)だったとしたらどうしましょう。もしそのような状況だったら即ツアーを解散しようと考えてます。情報によると乃木神社はそんなに広くないらしいです。神社側に迷惑だけは掛けたくないからです。それが理由であります。その後の移動その他のことを考えても収拾がつかないでしょうから・・・。兎も角、明日は一日竹添井井(進一郎)研究に花を咲かせましょう。

http://絵


  • [8]
  • Re: ツアーに参加します

  • 投稿者:小岩のお坊ちゃん
  • 投稿日:2013年 6月13日(木)15時27分38秒
  • 返信
 
>>1
> 6月15日のツアーに参加します。小山
>
> この例のように参加するひとは、書き込みをお願いします。

  • [7]
  • Re: 竹添公使と「朝鮮事変」

  • 投稿者:小山
  • 投稿日:2013年 6月11日(火)21時22分14秒
  • 編集済
  • 返信
 
>>6
【竹添進一郎(井井)の朝鮮弁理公使時代】
竹添さん(銅像写真)は、朝鮮弁理公使時代は生死をかけた大変な時代をすごされたのですね?
また、日本の歴史の中で、日清戦争へつながる重要な歴史の流れに携わったとういうのは
驚きです。
外交官として、重要な任務を実施している中で、作品(写真)も作られたとはすごい方だなと
改めて感じます。
今週末が楽しみです。
天気がよければいいのですが。



  • [6]
  • 竹添公使と「朝鮮事変」

  • 投稿者:トニー
  • 投稿日:2013年 6月 9日(日)03時58分59秒
  • 返信
 
【竹添進一郎(井井)の朝鮮弁理公使時代】

●明治16年(1883)1月7日、弁理公使竹添進一郎京城公使館駐在赴任。
    ・12月帰国復命し、日本滞在となる。(島村久が臨時公使)
●明治17年(1884)11月2日、竹添弁理公使京城公使館に戻る。
    ・先の壬午軍乱の賠償金残額40万円と村田銃贈呈を朝鮮国王に上奏。
●明治17年12月4日朝鮮事変(京城変乱)勃発、邦人に多数の死傷者出る。
    ・竹添公使日本兵1個中隊(140人)を引連れ王宮に入る。
    ・磯林大尉以下兵士3人、民間人36人内婦人1人は夫と共に惨殺さる。
    ・12月7日、公使館を仁川に移し、朝鮮政府、清国軍袁世凱提督等との激しい論争が繰り広
げられる。
●明治17年12月19日、日本政府の実地調査検証の為め参事院議官井上毅が蓬莱丸にて仁川港到着。

朝鮮公使時代の竹添進一郎は朝鮮事変という歴史のうねりに翻弄されます。この事変で清国と初めて衝突した日本はこの後、伊藤博文、榎本武揚等により清国李鴻章と激しいディベートの末、一旦は天津条約を結びます。然しこの京城変乱(漢城変乱)をキッカケとして、9年後の日清戦争へと歴史は揺れ動いていきます。

http://絵


  • [5]
  • 竹添井井について

  • 投稿者:小山
  • 投稿日:2013年 6月 8日(土)10時25分23秒
  • 返信
 
トニーさん
ツアーシュミレーションありがとうございます。これでよいと思います。よろしくお願いします。
インターネットで、竹添井井の解説されているのをピックアップしました。年数等が若干違いますが。。。
------------------------------------------------------------
<天草郷友会紹介>
天草郷友会の祖:竹添井井(たけぞえせいせい)
1841年(天保12年))  大矢野鳥上村の医師「竹添筍園」の一子として生まれる。
1855年      /14歳 熊本の儒者「木下?村」の門下生となる。
               細川家に仕える。
               熊本の玉名で私塾を開く。
1875年(明治8年)/34歳  上京し、「勝海舟」の斡旋で、清国特命全権公使「森有礼」の随行員となる。
               その後、森の口添えもあり、「伊藤博文」に認められ、大蔵省書記官となる。
1880年(明治13年)/39歳 天津領事となる。
1882年(明治15年)/41歳 朝鮮の京城公使となる。京城事変の時は、居留民保護のため、日本軍一個中隊を指揮して防戦に努めた。
1885年(明治18年)/44歳 東京帝国大学(東京大学)の教授となる。天草人では初めてであり、約10年間その職にあった。
               小田原に閉居後、当時皇太子であった「大正天皇」の進講の栄に浴した。
1914年(大正3年)/74歳  天草第一号の学士院会員に推され文学博士となる。
1916年(大正5年)    76歳で歿した。

<紹介1>
竹添井井(たけぞえせいせい)

明治期の外交官,漢学者。字は光鴻(こうこう)。井井と号した。肥後天草の人。
幕末・維新期に熊本藩のため京都,江戸に奔命した。
1875年,伊藤博文らの知遇で森有礼に随行して渡清し,
さらに翌76年,中国内地を旅行し《桟雲峡雨日記》を著す。
大蔵省勤務をへて80年天津領事となり,琉球分島問題で井上毅らと清政府に交渉した。
壬午軍乱で花房義質(よしもと)の後任韓国公使としてソウル(京城)入りし,
独立党の金玉均,朴泳孝らを助け日本勢力の扶植に努めたが,
84年暮れの独立党クーデタ(甲申政変)に日本軍を王宮に進めながら清軍に反撃され,失敗した。

<紹介2>
竹添井井(たけぞえせいせい)
 1842~1917年。幕末明治の儒学者。字は漸卿(ぜんけい)、幼名は満。
 後に進一郎と改めた。別に光鴻(こうこう)という。号は井井。
 先祖は駿河入道覚派、代々肥前の蓮池(はすのいけ)に居た。
 父は通称・順左衛門、荀園(しゅんえん)と号し、字は叔南。
 広瀬淡窓に学んで詩を善くし、宜園十八才子の一人に数えられた。
 井井は、天保13年3月15日、肥後天草郡上村で生まれた。幼少にして神童と称されるも
 虚弱で、母の苦労は大抵ではなかったが、父はその大成を期して厳しく躾けた。
 安政3年(1856)15歳で熊本に出て、木下村(いそん)の門に学んだ。
 木門には俊才が多かったが、中でも井上梧陰、坂田警軒と親しく、称して三傑と呼ばれた。

 慶応元年(1865)9月、藩学・時習館居寮生となるも、12月3日、父が61歳で急逝。

 慶応3年5月6日、父とも頼んだ村が63歳で没する。

 井井は悲傷し詩を作って之を哭した。

 当時、討幕の嵐は更に強まり、江戸幕藩体制の崩壊は時間の問題であった。

 諸藩が競って大艦を購入する中、熊本藩の万里丸も同じように購入されたが、航海中の事故
 で船底を破損する。日本に修理ドックが無い為、井井は策を講じ、漂流と称して上海に赴き
 修理をおこなった。その上海でアヘン戦争後の外人の傍若無人な振る舞いを目の当たりにし、
 憤懣やる方無い思いを述べている。

 維新の際には、薩長の諸藩は討幕をはかり、肥後の藩士も多くこれに加わったが、井井は
 藩主に従い佐幕派として活動する。またこの頃、時習館訓導となった。

  明治8年4月、修史局に入り、森有礼の清国公使に随行し、天津に赴く。
 北京・蜀山を訪ねた後、人情風俗を探ろうと、同郷の津田静一(九州学院創立者)と5月2日
 北京を旅立ち、直隷・河南・陜西を経て、四川省に入り、成都・重慶に至る。
 さらに三峡の険から洞庭湖へ抜け、8月21日上海に到着した。
 かくて観聞した所を録し、”桟雲峡雨日記”(さんうんきょううにっき)詩草三巻として刊行。
 文辞の雄麗さを世間に轟かせた。
 官命により陸軍大佐・福原和勝に属して上海に駐留中、西南の役が勃発する。

その後、天津総領事、朝鮮弁理公使となったが、明治18年に公使を辞し、小田原に読書の
 楼・独抱楼を建て隠栖。東京帝国大学文学教授となる。

大正6年3月29日、77歳で病没。

 伊藤博文はよく訪問して益を受け、皇太子も時に召されて儒教に関する教え等を御下問に
 なったという。正四位勲四等を贈られ、小石川音羽の護国寺にその墓がある。

  文、詩共に一流と称され、著書に「左氏会箋」「毛誌会箋」「論語会箋」他がある。


<紹介3>
(1842―1917) 明治の外交官、漢学者。名は光鴻(こうこう)、字(あざな)は漸卿(ざんけい)、通称は進一郎。
井井は号。九州天草(あまくさ)の人。熊本藩士で、戊辰(ぼしん)戦争には藩の参謀を勤めた ...

  • [4]
  • ツアー シュミレーション(案)

  • 投稿者:トニー
  • 投稿日:2013年 6月 8日(土)01時39分14秒
  • 返信
 

河童さん、小山さん、スレ覗き見のみなさんへ
10:00乃木神社境内・文学碑見学、語らい、散策約1時間→11:00乃木坂駅(千代田線)⇒表参道駅乗り換え(半蔵門線) ⇒ 永田町駅乗り換え(有楽町線) ⇒ 11:30護国寺駅→護国寺墓地・お参り、語らい、散策約1時間半→12:55護国寺駅(有楽町線) ⇒ 市ヶ谷駅乗り換え(都営新宿線)⇒小川町駅(A3出口)→ 13:25洋食の店松栄亭・郷友会創始の頃に思いを馳せ、文豪食に舌鼓(14:30解散予定)
概ね、上記のようなスケジュールになるのではないかと予想します。

 

河童さん、竹添井井の娘婿である嘉納治五郎の別荘跡が我孫子にあるとのことですが、今回、足長爺さん?婆さん?の短い足は我孫子方面までは伸びませんので悪しからず。ご免なさい。(一応確認)

 


http://絵


  • [3]
  • 松栄亭(宝亭)について

  • 投稿者:小山
  • 投稿日:2013年 6月 4日(火)01時12分0秒
  • 返信
 
トニーさん
こんばんは!
先ほど、郷友会のtopに紹介を掲載しました。
松栄亭ですが、下記ページに紹介ありました。
http://tabelog.com/tokyo/A1310/A131002/13000349/dtlphotolst/P434185/
夏目漱石や岩波正太郎も好んだ洋食屋みたいですね?洋風かきあげ(下記写真参照)が名物とか。
あと営業時間が、11:00~14:00 16:30~19:00  と書いてありましたが、
13:30ごろまでに、淡路町まで移動可能ですかね?
昔の味を堪能するのが楽しみです。

  • [2]
  • ツアーとスレッド利用

  • 投稿者:トニー
  • 投稿日:2013年 6月 4日(火)00時21分13秒
  • 返信
 
もちろんトニー参加です。
スレッドって整理整頓できて便利そう。

  • [1]
  • ツアーに参加します

  • 投稿者:小山
  • 投稿日:2013年 6月 3日(月)22時52分23秒
  • 返信
 
6月15日のツアーに参加します。小山

この例のように参加するひとは、書き込みをお願いします。


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