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(『児井さんへのラブコール』(私家版)より)
☆児井プロとぼく(山崎巌) より抜粋
その頃も、プロデューサー児井英生氏の名は日本映画界で燦然と輝いていた。
同じ日活に所属しながら、まだ四、五本のシナリオを書いたばかりで駆け出し
だったぼくは、この文芸超大作を手がけるプロデューサーの姿を、畏敬の眼差し
で見守ったものだ。
ところが或る日、その児井プロから呼び出しがかかった。打ち合わせ場所は神
宮前(現表参道)にあった旅館「郁代」。
ぼくは、喜びいさんで駆けつけた。まさかこのめぐり逢いが、ぼくの運命を大
きく変えるとは、夢にも思っていなかった。
昭和三十二年夏。ぼくは二十代後半、児井プロは四十代後半だった。
駆けだしのぼくに、ていちょうに挨拶した児井プロは、原稿用紙(ペラ)を出す
と一枚破った。古く黄色に変色している。日活から大分まえ大量にくすねて、ス
トックして置いたらしい。
そのペラに、クセのある丸っこい字でこう書いた。
「ギターを持った渡り鳥」
そして、言った。
「会社が決めた題名です。小林旭主演で、十月一週封切り……ギターは新しい。
渡り鳥は古い。ですから古きウツワに新しい酒を盛りましょう。さっそく書いて
ください」
「どんなストーリーにしましょうか」
「原案があります」
児井プロは、これも使い古した日活の書類袋から、次々と中味をとりだした。請
求書、映画の招待券、雑誌の切りぬき、どっかのバッチ等々がごちゃごちゃまじ
っている。いまで言うポシェットがわりか。その中からペラ二十枚ほどの原稿を
みつけてぼくに渡した。
よれよれだった。
「僕の友人で、ハラケンって男が書いたんです」
「ハラケン ? 」
「ええ、代議士の」
その人が原健三郎氏と判ったのは他人の口からで、児井プロは最後までハラケン
で通した。
一読した。過去を背負ったギター流しが、或る港町に来て娘と愛し合うが、その
父親の悪党をやっつけて去る、という内容だった。
「これだけでは足りません。長谷川伸の世界を入れましょう。全ての登場人物に
です……では、お願いします」
そのまま児井プロは、プッツリ姿を見せなくなった。旅館にとり残されたぼく
は、困った。
が、ストーリーだけはなんとかでっち上げなくてはならない。三、四日たった真
夜中、表からぼくを呼ぶ声がした。窓をあけると児井プロが立って居り「夜食を
食べに行きましょう」と誘う。ぼくは眠気をがまんしてつき合った。
飯を食いながら、ぼくは出来かけのストーリーを話す。児井プロがポツンと意
見をいう。
それが全てマトを得ていた。眼がさめる思いだった。こうした事が三、四回続
き、ハコ書きができた。ぼくは知らず知らずのうち、児井プロのペースにはまっ
ていったのだ。
その年の十月、「渡り鳥」が上映され、無国籍映画のハシリになった。
運命が狂ったというのは、その事である。
ぼくは児井プロと組んで、旭ものは勿論、裕次郎、和田浩治、赤木圭一郎等々
の主演ものを連打し、気がつくと、いつか日活の屋台骨を背負っていた。
(略)
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と『ギターを持った渡り鳥』の部分を抜粋してみましたが、昭和三十二年は昭和三十四年
の誤りとしても、この文章によると原健三郎さんの原案となる原稿がこの作品には、二十
枚ほど存在していたということになりますね。
なおこの私家版『児井さんへのラブコール』というのは117ページの薄い冊子なのですが、
この冊子の巻頭に書かれた児井英生さんの文章によると文藝春秋より『伝・日本映画の黄
金時代』が発売される時に内容が多量のために編集上、映画のプロデュース関係に絞って
公私に亙る交友関係を割愛されたそうで、その部分の児井さんの先輩・同輩後輩という方
の寄稿の数々を一冊に纏められたのだそうで、文藝春秋より発売された『伝・日本映画の
黄金時代』と二冊セットになった状態で函(というほどでもないのですが、厚紙の中に)
納まっているというものですので、『伝・日本映画の黄金時代』が1989.3.30発行ですの
で、同時期のものだと思われます。
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