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  • 龍ヶ岳町発! 天草架橋、離島振興に命をかけた龍ヶ岳初代町長森国久

  • 投稿者:ごほんガゼ
  • 投稿日:2013年 7月 3日(水)17時53分16秒
 
これまで、主に大矢野町を中心に天草架橋の歴史が語られて来ました。
必ずしも、天草全体の視点から客観的に史実に基づいているのか疑問に思う所がありました。
天草架橋開通50周年を目前にし、昭和28年の離島振興法天草指定決定から昭和36年の天草架橋工事着工決定までの運動史をより客観的な資料に基づき旧龍ケ岳町出身者として、掲示板を通じ本年3月から開始しております。
(資料は龍ケ岳広報のほか、天草の地域新聞「みくに」「天草新聞」「天草民報」そして、天草自治会館に保存されていた行政資料等です。)

連載回数が多くなったため、まとめることにします。
既存分は随時移動または、再投稿します。

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sage

  • [94]
  • 進軍ラッパ??

  • 投稿者:ごほんガゼ
  • 投稿日:2017年 4月27日(木)10時48分17秒
  • 返信
 
開通50年を迎えた「天草架橋(五橋)」に関する森国久初代龍ヶ岳町長の記事を50年ぶりに発見!

『11年間、進軍ラッパ』

1966年の断層、記者のメモから・・・  読売新聞(昭和41年12月26日)

天草架橋の開通


台風の接近でひどいどしゃ降りだった。その雨をついて、渡りぞめのパレードが始まった。建設大臣、道路公団総裁、三笠宮殿下、園田衆議院副議長・・・・と延々五百台の自動車が五つの橋を渡って、祝賀会場の大矢野中学校へ折り返す。
森政子さん(五二)は夫、国久さんの遺影を抱いて、最後列の一般招待者用バスに乗った。鋼材が幾何学模様に組み合わされたー号橋から、女性的な美しさの二号橋へ-。政子さんは窓をあけた。そして、夫の写真を海に向けた。横なぐりの雨が、がくぶちのガラスを通して遺影をぬらした。
「とうとう完成したよ、とうちゃん。あんたが寝食を忘れて走り回った橋がかかったとよ。天草が陸つづきになったとばい。胸を張って知事さんと自動車に乗って渡りぞめしたろうに・・・・」びしょぬれの遺影に語りかける政子さんのホオもぬれていた。


故森国久さん。元天草郡龍ヶ岳町長、天草郡町村会長、天草振興協議会長。天草の地方自治の頂点にいた。とくに天草架橋だけに肩書をしぼれば、架橋期成会副会長(会長は知事)中央の離島振興審議会委員。「夢のかけ橋実現に一番走り回ったのは、森国久町長でした」同町の戸山企画室長はしみじみと回想する。
「天草開発をはばむ最大のものは離島という立地条件である。天草の後進性を打開するためには一日も早く架橋を実現し、二市十三町村が行政的に一本化した“天草特別市“制にふみきるべきだ」が森さんのロぐせだった。そのために何度、建設省や自治省に足を運んだことか。町長室の机でいくたび青写真を描いたことか。島内の婦人会を中心に三度にわたって「ー円献金運動」を呼びかけたのも森国久さんだった。「天草を振興するためには天草の人間がまず立ち上がらねばならない。島の人たちが総立ちになって、それでもなお実現しないときに県や国の力を借りるのだ」
彼の”進軍ラッパ“は昭和二十六年から十一年間、高らかに天草島内に鳴り響いた


昭和26年5月郷里樋島村の村長選挙に当選した。同村は29年合併して龍ヶ岳村となり、初代村長に就任、33年の選挙でも再選された。このころ、天草架橋の話は”夢”から”実現“へ大きく胎動、日本道路公団が総事業費22億円の調査報告書を建設省に提出して、建設への地固めがなった。
森さんの身辺は多忙をきわめた。五橋建設の見通しがつくと、島内道路の整備。彼は「道路公社をつくって、橋の完成と同時に道路も全部拡幅、舗装してしまおう」と広大な構想を描き、島内の町村長たちに“力の結集“を呼びかけた。日曜日も休日もなかった。天草を愛し、天草の発展に夢をかけて、来る日も、来る日も飛び回った。病魔に倒れたのも熊本市へ出張中のことだった。


さる三十六年六月十一日、穿孔性腹膜災で病院に担ぎ込まれた彼は、二回の手術で胃袋を四分の三も切除したあげく、同月二十六日朝、永眠した。五橋の起工式を一年後に控え、志なかばにして四十九歳の若さで他界したのだった。息をひきとるまで「橋、橋」とうわごとを繰り返し、付き添いの政子さんを泣かせた。
なくなる年の正月、森町長は役場の職員たちに頼まれた書きぞめに『天草四郎国久』と署名した。天草の乱のヒーロー、四郎時卓と同じ心境だったのである。五つの橋で本土と陸つづきになり、大きく変容していく天草。その新しい郷土の統将になろうとした森さんの野望と気概が、その筆にあらわれている。だが、現代の動きは目まぐるしい。病に倒れてからわずか五年、五つの橋はりっぱにでき上がったが、森国久という名はすでに過去のものになっていた。
「起工式のときまでは、橋ができたら森さんの胸像を建てようという声まであったのですが・・・」と政子さんはさびしく笑った。


昭和十一年暮れ、人吉署の巡査だった国久さんと平凡な見合い結婚して以来、三十五年間、起伏の多い人生を歩いてきた彼女は、いま樋島保育園長として六十人の幼児を預かっている。国久さんとの間に生まれた三男二女のうち四人は就職、二女と二人暮らし。
「世間の人がいくら忘れ去っても、わたしは天草五橋のレールを敷いたのは主人だと信じていますし、当時、いっしょに運動した人たちも“森さんがいなかったら橋はでけんだった”と慰めてくれます」
遺影にむかって静かに手を合わせる政子さん。生前の森さんを知る人たちも「たしかに橋はできたが、島内道路はボコボコ。しかも各町村はバラバラで自分のところだけよくしようと血なまこになっている。森国久さんが生きておれば、天草をもっと大きな視野からみて、道路公社も実現させ、島民全部が幸せになるように尽力しただろう。
さる九月二十四日の開通式。パレードの一番後ろで、政子さんの胸に抱かれながら五橋を渡った森さんは、遠い世界で“新しい天草“の現状をどう思っているだろうか。

  • [93]
  • 熊本県道徳教育用郷土資料「熊本の心」

  • 投稿者:とき組
  • 投稿日:2017年 1月29日(日)14時30分31秒
  • 返信
 
熊本県道徳教育用郷土資料「熊本の心」『橋にかけた夢  森慈秀』を検証する。

検証⑤
ナレーション
「慈秀は60歳になっていたが、東京の関係者のもとに何度も陳情に行った。」

天草架橋期成会の設立総会後、初めての陳情は、「みくに新聞」によると、昭和30(1955)年3月20日に上京している。この時、慈秀氏は64歳。目的は「天草架橋工事の早期実現と瀬戸開削の国営工事への切りかえ等」であった。陳情団は林田地方事務所長、川辺土木事務所長、離島振興協会の森国久副会長(龍ヶ岳村長)、金子本渡市長、森慈秀氏ら。(みくに3.25)
なにも、陳情に何度も行ったのは「慈秀氏」ばかりではない。
『上天草市史大矢野編天草の門』から、森慈秀氏の架橋予算が内定した昭和37年2月までの上京陳情の回数を見てみる。

昭和30年   1回
昭和31年   5回
昭和32年   1回
昭和33年   0回
昭和34年   1回
昭和35年   2回
昭和36年   0回
昭和37年   0回

これが「東京の関係者のもとに何度も陳情に行った。」実情であった。
このメモ以外に、地域紙の記事に慈秀氏の上京陳情があるが、上天草市史に記載がないので除外した。
大矢野町長就任以降、100回を超える陳情は確認できなかった


検証⑥
ナレーション
「この頃から天草の人々も慈秀の熱意に動かされ天草架橋期成会が発足。」

「主客転倒」という言葉があるが、このナレーションはまさにそれにぴったり合う。熊本県は率先して、歴史の偽装を行っている。
前述の「天草建設文化史」には蓮田敬介元県議が「天草架橋の思い出」の中で「その森(慈秀)さんが一人で天草架橋は出来たようになってしまった。世の中は不思議なもので飛んでもない橋の歴史が生まれたものだと思う」と述べている。

昭和28年成立の離島振興法で天草は地域指定され、遅れていたインフラを本土並みとするため、架橋開通で大部分が指定解除された昭和55年迄に約1300億円の国費が投入された。
戦後の架橋架設技術と相まって、実にこの「離島振興法」こそが天草架橋実現の大きな武器になった。
これ等の条件の元で、
昭和28年頃から、蓮田敬介氏が「点々と浮かぶ島々」を調査し、五本から七本の橋で「本土と天草上島を繋ぐことができる」と確信し、昭和29年4月に「みくに新聞」に発表した。(昭和11年の熊本県議会での森慈秀氏の建議は三角と大矢野島を二本の橋で繋ぎ、あとは船で天草上島へ渡るというもの)
同年9月、建設省の伊藤局長の現地視察を実現し、「現在の架橋架設技術では架橋は可能」との回答を得て、
同年10月、県議、町村長が本渡保健所会議室にあつまり「大矢野(天草)架橋期成会を設立」することを決定し、準備会を発足させた。
同年11月、初めての「天草(当時は大矢野)架橋実現促進」で建設省へ陳情のため上京した。この陳情には「森慈秀氏」の参加はない。
同年12月15日、最後の準備会を開催し、「全島民の一人ー円献金」を申し合わせた。この時も、まだ、「森慈秀氏」の姿はない。

その後、前述のテレビ熊本のドラマにあるように、天草架橋期成会準備会より「副会長」就任の要請を受けて、初めて、森慈秀氏は「天草架橋期成会」の存在を知り、架橋実現の運動に参加した。

ナレーションがいう『慈秀の熱意に動かされ天草架橋期成会が発足』したのではなく、実は、まったく逆であった。
これを、『歴史の偽装』と言わずしてなんといおう。
そして、このことが熊本県では『熊本の心』として、県内の全中学生に特に天草では『道徳』の授業で教えられている。

⑦ナレーション
「島内では1円献金運動が始まった。」
「一人一円献金」の文字が初めて天草の地域新聞に載ったのは、昭和29年12月15日に開催された最後の天草架橋期成会準備会だ。
「一人一円献金」の目的はまず、架橋期成会の活動費の一部とすること。
期成会の予算は各市町村の分担金と寄付金で構成され、寄付金は、天草出身の成功者等からの寄付金と全島民の一人ー円献金があった。
一部、一円献金が架橋建設費となったと誤解している向きがあるが、ー円献金は期成会の活動費となった。
また、全島民が一円を献金することは天草島民の意思を県や国に示すことにもなった。
「一人一円献金」の発案者として、蓮田元県議は「川辺本渡土木事務所長であると「天草建設文化史の『天草架橋の思い出』」で語っている。
一方、著名な民俗学者『宮本常一』氏は、全国離島振興協議会では、
事務局長(宮本氏)と副会長(『森國久』初代龍ヶ岳町長)の関係で天草架橋を巡る論争を語っている。

”森国久が「一人一円献金運動」を提案”

宮本常一氏は「一人一円献金運動」の経緯について第八回全国離島青年会議講演要旨 で以下の内容を述べている。
『昭和二九年の(全国離島振興協議会)理事会で天草の森(国久)副会長さんが、天草は貧しいから特に多くの国の補助を仰がねばならないといった。私はそのいい方が納得できなかったので天草架橋について二人で大論戦したことがある。森(国久)さんはそれから一円献金運動をおこし天草架橋を計画した。その金が起工式の時に一二〇〇万円集まったと聞いた。献金するとき、島民はこの金は橋を架けるための金だというはっきりした目的を持って出す。一人一人頭の中に橋をかけなければならぬという意識を植え付けることになる。この熱意が政府を動かした原動力であったと思う。天草は貧乏で資本がないからできないのではない。やろうという熱意と協力があればできる。これは政治的な力ではない。これがほんとうの島の自主性だ。今や離島は全国的に手を結び、もっともっと団結を強固にしなくてはいけない時だ』貧しい天草はできるだけ国から補助金を引き出す。そのためには天草島民自身が架橋実現のために一人一円献金運動を起こした。島民自身のやろうというその熱意と協力が原動力となり国を動かした。」

この様に「一人一円献金」の提案者には諸説あるが、昭和29年12月15日に期成会準備会で申合せたことは間違いない。
しかし、『森慈秀』は期成会準備会に参加した記録はない。

昭和29年12月19日の天草民報の記事
”島民一人一円献金
架橋準備会で申合せ“

「天草架橋期成準備会は十五日教育会館で各界の代表者に報道陣を加えて約三十人が集まって開催、川辺土本事務所長の経過報告があったのち規約案、予算案の審議に移ったが会長に推戴された桜井知事を迎えて二十四日初大会を挙行、同期成会を来年一月―日付で発足させることを申し合せた。
同会の結成目的は調査研究、陳情請願機関として同架橋の実現を促進、離島天草を昭和35年目標で本土に直結しようというもので、行財政、技術、観光、産業の各専門委員会を設け、総会と評議員会の両性格を兼ねた委員会に天草出身の在京者も加え無給の事務局を置き、発足が正月であるところから会計年度に暦年制を採用している。
初年度予算は会費と寄附金で賄われる百六十五万円、二十余万島民による一人ー円献金と在京成功者による多額の寄附金をあてこんでおり、さらに同架橋は起債(約十五億円)で建設され、有料橋としてそれが償還されねばならぬため、一般の湧き上がる熱意と努力が要請される」
とある。

実際の献金(募金)は地元の婦人会や青年団が担った。
まさに、島民一体の運動だった。誰が「一円献金」を発案したか詮索することは無意味である。

昭和29年12月24日の天草架橋期成会設立総会後、翌年3月1日から「一人一円献金」は開始された。

昭和30年3月11日の「みくに新聞」の記事から

”架橋献金始まる“

「天草架橋の一日も早い実現をはかるため、3月1日から天草郡民24万の一人一円献金が各町村の婦人会を通じて開始されているが、7日そのトップをきって宮野河内村婦人会から会長の池田みよさんが2903円をとりまとめ架橋期成会に献金、また8日城河原婦人会から長島会長が2757円を献金したが、以後郡内各町村から今月下旬までにぞくぞく集まる模様。なお、同架橋期成会の行財政委員会では今月下旬、本渡保健所で郡民一人一円献金及び各町村の負担金、一般個人寄付金について協議することとなった。」
この様に島民一体となった運動が『天草架橋』を実現させた。

⑧ナレーション
「その後、大矢野町長に選ばれた慈秀は、島民の先頭に立って何度も国や県に働きかけた。
その努力の結果夢の架け橋は完成した。」

森慈秀氏が大矢野町長に就任したのは昭和33年4月25日時点で天草架橋の進捗状況はどうであっただろうか。
昭和29年11月24日に天草架橋(当時は大矢野架橋)で初めて上京陳情してから三年半、実は、日本道路公団(昭和31年4月設立)総裁が4月7日に天草架橋の予定地を視察し、4月24日、根本建設大臣は園田直代議士とともに大矢野町役場を訪れ、「三年後の昭和36年度に天草架橋を着工すると表明した。」

昭和33年4月25日、天草新聞の記事
“天草架橋実現本決まり、根本建設相現地で語る、着工は36年度“
  根本建設相は天草架橋決定のため昭和33年4月24日現地を視察し、次のように語った。
「橋を架ける事は間違いない。しかし、こんな大工事には調査期間を三カ年間位要するので、36年度から着工する事になろう。工事内容は費用その他通行料の関係もあるので、取り付け道路と橋だけ道路公団で施工し、他の道路は建設省でやる。更に費用は道路整備五ケ年計画の予算(約九千億円)からまわし、来年度から本格的な調査費が計上されるだろう。」

そして、翌日、森慈秀氏は大矢野町長に就任した。

森慈秀氏の大矢野町長就任は『天草架橋本決り』と新聞の見出しが踊る中であった。また、『島民の先頭』になってとあるが、昭和33年11月末に天草架橋期成会は架橋調査費の大幅増額を求めて上京陳情した。
その時の、建設省、道路公団への陳情書があるがそこに森慈秀氏の名はない。

その陳情書を示す。

陳情書
天草架橋の計画は永年に亘る島民の念願でありましたが、幸にも関係各方面のご理解とご援助のもとに愈々本格的調査を実施していただく事になりましたことは、誠に感謝に耐えない所でありまして、茲に厚く御礼申上げる次第で御座います。
この本格的調査は、やがて近々着工を約束されたものと確信し、今や二十四万島民の架橋実現への熱意は極めて大きなものがありますので、この際更に左記に関し関係御当局に於いてご検討をいただき早急に御解決賜りますよう重ねて御願い申し上げます。


一、昭和三十四年度調査費2000万円計上方を要望する。
二、昭和三十四年度調査を完了し、昭和三十五年度着工を要望する。
三、建設省の公共事業費は、離島振興事業費の枠外に於いて計上方を要望する。
四、連絡道路の一部を本年度救農土木事業として実施方を要望する。
五、昭和三十四年四月一日より、架橋調査事務所の設置方を要望する。
右の通りで御座いますので、何卒特別の御詮議をもって御採択の上宜しくお取計賜りますよう天草二十四万島民を代表して茲に陳情いたします。
昭和三十三年十一月二十一日
                 天草架橋期成会長 桜井 三郎
                 天草振興協議会長 森 国久

ここに記されたのは、桜井県知事とともに、森國久龍ヶ岳町長が天草振興協議会会長であった。


  • [92]
  • 熊本県道徳教育用郷土資料「熊本の心」『

  • 投稿者:とき組
  • 投稿日:2017年 1月29日(日)13時54分50秒
  • 返信
 
④熊本県道徳教育用郷土資料「熊本の心」『橋にかけた夢??森慈秀』を検証する。


検証④
ナレーション
「橋を架ける話は戦争でー旦立ち消えとなってしまったが、戦後徐々に復興が進むと、慈秀の橋への思いが再びよみがえった」

ここでの説明はまるで自然に「(天草の)復興が進み、架橋実現の条件が整ってきたが如く説明している」

当時の天草の現状を当時の地域新聞の記事から見てみる。

昭和30年1月1日の天草新聞によると、天草土木事務所長の川辺正人氏は『天草架橋の話』の冒頭で次のように述べている。

「天草と三角とが僅か二キロ余の海を以って離れている為に、文化産業教育風俗に至るまで島の特長の後進性を示して居ります。この事はキリシタン歴史に於いて昔から残された宿命であります。明治以来、我が国が急激に躍進して文化に産業に世界の各国に比して先進国並或いは五大国とまで称せられるまでに至ったのに、一人天草のみは電気も港も道路もない唯、人力による段々畑がーつ後進性の見本として残されて居ります」

国は少しずつ復興の兆しをみせていたが、一人天草は蚊帳の外だった。
その後進性を除去するために天草の町村長は「離島振興法」の指定を受けるべく奮闘した。全国離島振興協議会の副会長、内閣離島振興対策審議会委員を天草から送り出し、天草島内道路等の整備拡充した。これにより架橋実現の条件が少しずつ整ってきた。

昭和30年6月10日の「みくに新聞」によると
「全国離島振興協議会の理事会は来たる13日、第一議員会館で行われるが、天草からは森国久全国離島振興協議会副会長、田川功(理事)、川上秀志(監事)の三氏が出席することになり8日上京した。
天草からの要望事項は第一に郡内17無灯火部落の点灯事業促進であるが、この無灯火部落は郡内で300部落、2900余戸(14900名)に及び、その一日も早い点灯が待たれているものである」とある。
昭和30年で天草島内で約一万四千人が電気のない生活を強いられていた。
天草が無灯火の電気のない生活から解放されたのは昭和37年以降だった。


蓮田敬介元県議によると(天草建設文化史『天草架橋の思い出』より)

「国の復興と発展の中で、国会に離島振興法が提案され、昭和二十八年七月国会を通過した。これで、私が念願した夢の架橋が実現する法的裏付ができた。
昭和二十八年の八月頃から、戸馳島や大矢野島や小さい島々を漁船を自費でやとって、地図を頼りに海の深浅や島から島への距離を計り、潮の干満を調べ・・・、十一月まで調査を続けた。五つか七つの橋を架けると、必ず三角から合津まで行けると考えた。

そして『天草国立公園と夢の観光橋』と題して原稿を書いた。 その原稿を熊日の記者に掲載を頼んだが、『この内容は大変金がかかるから県が迷惑するから』と原稿を返してきたので、『みくに新聞』社の吉見社長に頼んで、二十九年四月九日と十六日にみくに新聞に載った。
五十七人の天草の町村長に相談したが、賛成したのは、城河原の村長鶴田又雄氏と樋島村長の森國久氏だけだった。 その後、六月に九州地方建設局に伊藤局長を訪ね、九月には天草来島し、現地視察した。
『今の技術を持ってすれば充分やれる』との伊藤局長の挨拶で、全町村長も気分が変わった。 『天草架橋期成会設立』の気運が高まり、年末の昭和二十九年十二月二十四日に天草架橋期成設立総会が開催された。」

天草架橋実現への気運は「徐々に復興が進」んだのでなく、天草島民の努力により、『離島振興法』の指定が契機となって大きなうねりとなって実現したものなのだ。

平成十六年(2004年)にテレビ熊本で放送された『ドキュメンタリードラマ??夢の架け橋~天草五橋に情熱をかけた男~森慈秀』によると、森慈秀氏は、当初、戦後の天草架橋実現の運動には加わっていない。

同ドラマの脚本から検証する。
『シーン57』の園田直代議士が森慈秀氏ヘ「天草架橋期成会の副会長」を要請する電話に、

慈秀「はっ?????架橋、期成会?」と戸惑い、

『シーン59』では

「ちょ、ちょっと待ってください、園田さん。わしは、もう隠居の身と思うておりましたが・・・」と応じている。

このことから、森慈秀氏は天草架橋期成会設立の動きを知らなかったことがみてとれる。

ナレーションでは「慈秀の橋への思いが再びよみがえった」とあるが、自ら、戦後の架橋技術の向上や「天草の離島振興法指定」により天草架橋実現を再び思いたったのではなく、他者(園田直代議士の電話)の架橋期成会副会長への薦めにより、再び天草架橋実現を思いがよみがえったのである。

慈秀氏の天草架橋の運動メモは昭和29年12月24日の「天草架橋期成設立総会」から始まっている。(上天草市史大矢野編天草の門)


  • [89]
  • 熊本県道徳教育用郷土資料「熊本の心」

  • 投稿者:とき組
  • 投稿日:2016年 8月17日(水)15時20分21秒
  • 返信
 
熊本県道徳教育用郷土資料「熊本の心」『橋にかけた夢  森慈秀』を検証する。


熊本の心
ナレーションの説明
『 慈秀は天草の発展のためには橋が絶対必要だと考えた。そのために、慈秀は熊本県議会議員や町長になり、75歳の時、ついに天草五橋が完成した。』

巷間、「天草五橋を作った男」として、元大矢野町長森慈秀氏がいわれています。
熊本県も昭和61年同氏を「熊本県近代文化功労者」に決定しました。

今回、熊本県作成の「熊本の心」『橋にかけた夢  森慈秀』
http://www.yatsushirohighschool.com/ms/wp-content/uploads/sites/3/2015/11/fccdeaaac08059dd3bbe13990d54fd86.pdf


熊本県の道徳教育用郷土資料「熊本の心」広報テレビ番組をみました。
「You Tube」で見ることができます。
https://www.youtube.com/watch?v=HmcJyU-2ZZE&index=8&list=PLycjFK99EEhKVWD_bUQmoEDM5LgN8l9-4

そこで、元大矢野町長「森慈秀氏」が「天草に橋をかけた人」としてとりあげられています。

「橋にかけた夢~森慈秀~」


そこから天草架橋(五橋)に関する部分を記述抜き出してみる。


「放送のナレーション」
天草五橋の生みの親「森慈秀」を紹介するよ。

    「 慈秀は天草の発展のためには橋が絶対必要だと考えた。そのために、
慈秀は熊本県議会議員や町長になり、75歳の時、ついに天草五橋が完成した。」

「森慈秀の功績を見てみよう。出身地の湯島と生い立ちの後、大矢野島で小さな石橋を島民と共に作って喜ばれたことから、
『あの小さな石橋でこんなに喜ばれる。それなら天草と九州本土の間の海に橋を架けたら、どんなに喜ばれるか』と、慈秀は県議会で『天草を発展させるには海に橋を架けて、九州本土と陸続きにする必要がある』と提案した。
しかし、「議員の多くは『あの海に橋がかけられるものか。夢みたいなことを言うな」と全く相手にしない。」
「慈秀は鋭く反論したが、県議会だけでなく世論もこの話を夢の架け橋だと笑った。」

「橋を架ける話は戦争でー旦は立ち消えとなってしまったが、戦後徐々に復興が進むと、慈秀の橋への思いが再びよみがえった。

    「慈秀は60歳になっていたが、東京の関係者のもとに何度も陳情に行った。」

「この頃から天草の人々も慈秀の熱意に動かされ天草架橋期成会が発足。」

「島内では1円献金運動が始まった。」

「その後、大矢野町長に選ばれた慈秀は、島民の先頭に立って何度も国や県に働きかけた。
その努力の結果夢の架け橋は完成した。」

「その日(天草架橋開通の日)、森慈秀は『天草に橋を』という長い間の念願が実現しました。」

「森慈秀と天草島民の熱い思いがい実現させた「天草五橋」としめくくるナレーションで終わっています。


この、森慈秀氏のストリーを検証する。




ナレーションの説明に基づいて検証する。

検証①
『慈秀は天草の発展のためには橋が絶対必要だと考えた。そのために、慈秀は熊本県議会議員や町長になり、75歳の時、ついに天草五橋が完成した。」


「森慈秀氏の政治家歴」

    森慈秀氏の熊本県議会議員存任期間は、昭和10(1935)年~昭和14(1939)年まで。1期4年間。
戦後、初めての参議院選挙に立候補するが落選。

昭和の大合併で誕生した大矢野町の二代目町長となる。
大矢野町長在任期間は昭和33(1958)年4月25日(月)~昭和45(1970)年まで3期、12年。

    昭和14年~昭和33年までの約20年間は森慈秀氏は地方議員や首長等、公職についていない。
    この説明では、あたかも、昭和10年から昭和45年まで、公職にあり、架橋実現運動を継続していたかのように受け取れる。

それでは、森慈秀氏が大矢野町長に就任した、昭和33年4月25日の時点で、天草架橋実現運動はどういう情況だっただろう。
森慈秀氏の大矢野町長就任前日、園田直代議士とともに、現職の建設大臣が天草架橋予定地点を視察し、大矢野町役場で講演している。
森慈秀氏のメモによると
「4月24日 園田氏の案内にて根本建設大臣来島。三角に出迎ゆ。三角側の埋立地点より向う側飛岳にかけることを説明。知事、部長、其他、関係者随行。九時半保安庁の「すずなみ号」にて登立着。沿道には小中学生、青年団及び一般民の出迎あり。大矢野町役場会議室にて副会長として挨拶し、郡民の熱望を陳情す。

大臣は三十三年度に於て調査費百六十万円を三百万円に増加したと明言さる。
又三十六年度より島内の国道取付道と公共事業とすることを述べられ、園田氏の友情を述べ、架橋事業の今日迄延引された理由を説明して柳に向わる。
桜井知事と同車の機会をとらえ、現在の計画はこの少ない大矢野島の穀倉地帯をつぶすことになる。左折して海岸に出ると、せ悪地であり、又景色もよいからその方ヘ変更して貰いたいと陳情すると、大臣は森君の言うようにしなさいと知事に命ぜらる。私は大臣の申されたことを知事に保証人になって下さいと頼みたり。之が実現して現在の宮津路線は生れたり。一行は架橋を一つ一つ親しく視察し、沿道多数の歓迎を受け松橋経由八代に向わる。」


天草の地域新聞「天草新聞」によると
「四月二十四日 根本建設相は天草架橋決定のため現地を視察。
 根本建設相は天草架橋決定のため現地を視察し、次のように語った。 『橋を架ける事は間違いない。しかし、こんな大工事には調査期間を三カ年間位要するので、三十六年度から着工する事になろう。工事内容は費用その他通行料の関係もあるので、取り付け道路と橋だけ道路公団で施工し、他の道路は建設省でやる。来年度から本格的な調査費が計上されるだろう。』」(天草新聞4.25)

森慈秀氏の大矢野町長就任時の天草架橋実現ヘの進捗具合は、現職の建設大臣が三年後に着工すると明言していた。実際の着工日、昭和三十七年七月と三ヶ月の誤差しかない。
昭和29年に開始された(具体的には後述)架橋実現運動は着工時期決定の為の最終調査段階であった。

大筋では天草架橋着工が決定されていた時点で、森慈秀氏は大矢野町長に就任したことになる。
森大矢野町長に残されていた陳情は、「天草架橋」を作るか作らないかでなく、大矢野島内の道路をどうするかが、最大の関心事であった。
    森慈秀氏の功績を称える時、大矢野町長就任後、国や県に何度も上京陳情したとの記述がある。時には百回を超える陳情という表現もある。
昭和36年7月には道路公団、11月には建設大臣、翌年3月には大蔵省の予算が決定するが、長く見ても4年で100回を超える上京陳情などできない。
森慈秀氏の記録(上天草市史大矢野編天草の門)や渡辺常吉氏の『夢の足跡、森慈秀翁を想う』には、この大矢野町長、第一期存任期間には十数回の記述しかない。

また、森慈秀氏が陳情した内容はどうだろうか。
前記の根本建設大臣への陳情の大半は、『現在の計画はこの少ない大矢野島の穀倉地帯をつぶすことになる。左折して海岸に出ると、せ悪地であり、又景色もよいからその方ヘ変更して貰いたいと陳情すると、大臣は森君の言うようにしなさいと知事に命ぜらる。私は大臣の申されたことを知事に保証人になって下さいと頼みたり。之が実現して現在の宮津路線は生れたり。』
とほとんどが大矢野島内の道路コースの決定に関することである。
それも、正式な「天草架橋期成会」で議論するのではなく、大臣や公団幹部と車に同乗した時、私的に『陳情』している。


検証②
ナレーションから
「あの小さな石橋でこんなに喜ばれる。それなら天草と九州本土の間の海に橋を架けたら、どんなに喜ばれるか」
「慈秀は県議会で『天草を発展させるには海に橋を架けて、九州本土と陸続きにする必要がある』と提案した。」
とあるが、実際の熊本県議会での架橋に関する質問はどうであったでしようか。

当時の森慈秀氏の提案の内容
森慈秀氏の伝記を纏めている、渡辺常吉氏の「夢の足跡」(森慈秀翁を想う)によると
「三角西港と大矢野島中間に浮ぶ中神島を中継点とする吊橋二基であった」(渡辺常吉著『夢の足跡』より)

熊本県議会の議事録によると
「中神島を中継とし、登立町に向って橋を架け、(途中略)県道によりて中村柳港に出てから、優秀たる連絡船で合津港に結ぶ・・・」(森慈秀氏の熊本県議会での提案の一部。


このように、森慈秀の提案は三角から大矢野島に2基の橋を架けることであり、その先の天草上島合津港までは船となっている。

九州本土と天草を陸続きにする計画ではなかった。

ところが、いつの間にか、森慈秀氏の熊本県議会での提案が、昭和四十一年に完成した「天草五橋」と同じであったかのように、間違って伝えている。

     また、天草に橋を架けるという構想は大正年間に既にあり、当時は鉄道敷設の計画さえあった。(みくに新聞:昭和33年3月23日『(天草の)陸上交通45年史』)参照。
実際に、大正十一年二月二十一日開会の(天草)郡通常議会で、郡議会から鉄道大臣に対して、「天草に鉄道を編入し、工事着手を望む請願書」の提出を満場一致で採択した。
池田泰親代議士(御領出身)が「鉄道省参与」となり、技師を派遣して調査する段階までいったが、戦況の拡大とともにその内立ち消えになった。

もちろん、「天草架橋」の夢もこのころからあった。


それなのに、何故か森慈秀氏が、「初めて架橋を提案した人」とされている。




検証③
ナレーションから

「議員の多くは『あの海に橋がかけられるものか。夢みたいなことを言うな」と全く相手にしない。」
「慈秀は鋭く反論したが、県議会だけでなく世論もこの話を夢の架け橋だと笑った。」



    確かに、アメリカやオーストラリアに、海峡にまたがる橋があったかもしれない。
    彼の国では可能だったかもしれない。
    しかし、事をなすには、その時の時代(昭和10年代)とその場(天草)のおかれている状況を見ていかねばならない。

昭和11年という、森慈秀氏が熊本県議会で三角と大矢野島に橋を時代を年表から見てみる。
昭和11年
1月、「日本がロンドン軍縮会議から脱退」
2月、「二・二六事件」
11月、「日独防共協定締結」

昭和12年
7月、「日中戦争勃発」

日本はこの先、日中戦争の泥沼にそして太平洋戦争ヘつき進んでいく前夜であった。

『天草の道路事情』

橋をかけて、連絡船で行ったその先の天草の道路事情はどうだっただろうか。
今では、天草上島、松島合津から左右に天草下島ヘ通る道路がある。
昭和11年当時の道路事情はさておき、昭和30年前半の道路事情を述べれば足りるであろう。
まず、左方面、現在の松島阿村、姫戸、龍ケ岳、倉岳、栖本から本渡へ通ずる道は、車は勿論、自転車や徒歩でも困難なところがあった。

上島貫通道路の完成は昭和29年期成会結成(森國久龍ケ岳村が会長)により本格的な活動が始まり、昭和36年に各町が繋がった。

     右の松島、有明から本渡への道はわずかに巾4m弱の道路があるだけであった。

   前方に車をみると退避帯に一方の車止めなければならなかった。

     上島と下島を繋ぐ橋は大正年間につくられたが、車で通行するには貧弱であった。
    下島の道路事情は本渡から富岡への馬車道が車が通行できる程度で、下島を循環する道路はなかった。

   下島に循環道路が完成するのは、こちらも昭和36年である。
    だが、上島、下島ともに未舗装率99%であった。

    時代・技術状況を必要条件、天草の道路等のインフラを十分条件とすれば、その双方ともに、昭和11年の天草は条件を満たしていない。

    全国離島振興協議会の事務局長や内閣離島対策審議会委員を務めた「山階正芳」氏は「天草に本土から橋をかけようとする最初の構想は、昭和初期にたてられたというが、当時は単なる夢物語としてかえりみる人も少なかった。天草架橋が現実的な問題として取り上げられたのは、一九五四(昭和二九)年以来である」と述べている(「天草の架橋問題」、山階芳正『日本地誌ゼミナール九州地方』一五七~一六二頁、昭和三六年、大明堂

    森慈秀氏の提案は、結果として、戦後の天草島民の努力により天草架橋が実現したことから出てきた「結果オーライ」として評価されるようになった。

昭和30年代半ばになっても、電気の恩恵に浴さない人が一万五千人も天草にはいた。
当時の天草の状況をみると、「夢の架橋」と言われたことを批難できることではない。

    天草架橋実現のための必要十分条件の確立は昭和28、29年までまたなければならなかった。


つづく












  • [88]
  • 敵味方供養碑、平和宣言、健康宣言。

  • 投稿者:三方限古典塾の塾生 納利一 76歳
  • 投稿日:2016年 8月11日(木)05時00分4秒
  • 返信
 
 「敵味方供養碑、平和宣言、健康宣言。」をキーワードに検索したところ、この龍ヶ岳初代町長森国久の掲示版と甲突川健康掲示版がヒットしました。

  • [82]
  • 心をつなぐ五橋

  • 投稿者:ごほんガゼ
  • 投稿日:2015年11月 7日(土)19時06分51秒
  • 返信
 
今年の五橋祭から、龍ヶ岳中学校三年生の作文を紹介します。


第四九回(平成二十七年)天草五橋祭

天草架橋開通に尽力した上天草の偉人の功績をたたえる感動文、最優秀賞作文

心をつなぐ五橋 龍ヶ岳中学校 三年 川上 千晶

私は森国久さんの事を道徳で学び、自分の生まれ育った天草の歴史の奥深さ、そしてその歴史の大きな一歩である「天草五橋の実現」を成功させた偉大な人物であることを知りました。
 私達、天草に住む人にとって天草五橋は交通の要であり、天草を象徴するシンボルでもあります。そのため毎年夏になると天草五橋祭が行われます。けれど、毎回ただ何気なく通るだけで「どのようにして橋がかけられたのか。」という事を考えたことはありませんでした。そのため「十年間を百年生きた男」という資料を読み、森国久さんの人生を通して五つの橋がかかるまでの道のりを知りました。そのことで故郷天草が愛しく感じられました。天草五橋はただ、交通の便を良くしてくれる物としてつくられたのではなく、森国久さんの誇りと人生と島民への熱い思いの結晶だと感じたからです。
森国久さんは「全国離島代表決起大会」で涙ながらに訴えました。「天草には、私達には橋が必要だ。」と。普通だったら「橋があったらいいな。」と思うぐらいだと思います。それに自分の人生をかけてまで、故郷に恩返しすることは大きな負担や覚悟、信頼などが求められます、これは容易に出来ないことですが、実際に三十七歳~四十八歳の間、国久さんは本格的な橋づくりをされているのです。この約十年間、日々労を惜しまず働き、「十年間を百年生きた男」というように毎日実のある働きをし、着実に夢を叶えていかれました。夢を実現できたわけ。それは全て、森国久さんの生き方から学べると思います。一つ目は子供の頃から抱いていた夢を諦めず抱き続けた「執念。」二つ目は、発言権がなくとも抗議し、涙ながらに訴えた「行動力。」三つ目は「人の心を動かす力」これは「全国離島代表決起大会」の会場にいた人々に「故郷への恩返しをしたい」という一心な思い。としてその執念を感じさせる発言をしたことから言える物です。
 これらの事から天草五橋は、国久さんの執念と誇りと人生、そして故郷天草への熱い思いの結晶であり、島だけでなく天草の島民の心もつないだ大切な物であることを知りました。森国久は人生を通して「夢は夢に思うだけではただの夢にすぎない。実現する努力の期間を経て夢は叶う。」と私達に教えて下さったのだと思います。だからこそ私達は故郷におくられた橋や国久の思いを大切にし、後世に語り継いでいかなければならないと思います。


  • [81]
  • 森国久氏の随筆

  • 投稿者:ごほんガゼ
  • 投稿日:2015年 7月 9日(木)07時58分43秒
  • 返信
 
天草を大型台風九号(8月)、十二号(9月)が連続して襲来した昭和31年。


御用納め式の挨拶(昭和31年)

フルフチョフ第一書記は、帝国主義者と闘う場合はスターリン主義であると放言している。ハンガリー国民はソ連によってくたくたにされ、エジプトは英仏によって占領されんとした。無法まかり通るの世情、世は諸行無常である。 人生のはかなさ、人の世の無情を感ずるのは一人釈迦ばかりであるまい、だとしてもこの世から逃げることも出来ないし、その無常を想っても仏心も湧かないけれど、柄にもなく、人生とはなんぞや、生きるというめどを何に求めるのかと、人並みに思い悩むこともある。 毎年十二月二十八日には外なみにご用おさめ式を行う、役場職員、教育委員会、農業委員会、さては、保育園、産院、女学院、水道渡船、有線放送等の関係職員五十数名なかなか大所帯である。そこで村長式辞であるーー村は村民の福利を図るためにあります。福利とは村民公共の福祉と利便と民副をもたらすことであります。村民は私や諸君の給料を支払ってゐます。私達は公の義務があります。村民の欲する公共事業を行う団体であります。 本村は赤字団体でありますが、その原因は公共のため投資した結果であって、村民も又理解しています。有限会社や株式会社なら黒字はその存在の絶対条件でありますが、公共団体が村民のために投資せずして、銀行の預金金利を稼いでも意味なしであります。しかし財政の健全性は望ましい。そこで、財政再建計画を樹立しその確立を期しましたが、九号十二号台風は非常に手痛いものでありました。 ところが皆様は自発的に昇給を放棄し、議員も三役も減俸した。しかして、村民は立ち上がった。それはささやかな私達の善意が逆風を巻き興したといえないことでしょうか。 私はいつも、人生とはなんぞや、なんであろうかと想い悩む。求めると求めずとも現実只今、天なり命なりでその職にあります。その職に懸命でありその場に忠実であることが、人生であるといはれないでせうか。その現実の灯がともっている事実ーー即ち人生の灯であるでしょう。 儚い人生ではあるがーー人生を支える力をーー人生の暮らしの力を生きるささえと、考えたいものです。不平の心も感動にうち奮う心も一つの心であり同じ心であります。 私達の高い地位でもないけれど、又晴れがましい職場でもないけれど、現実に生甲斐を持ち現実に打ち込まんとする気概こそ人生でありませう。互いに健康に注意してともども村興しに努力致しましょう。とー(執筆は昭和31年の御用納めと思われる)

  • [80]
  • 昭和36年、年頭の挨拶(天草民報)

  • 投稿者:ごほんガゼ
  • 投稿日:2015年 7月 8日(水)12時39分36秒
  • 返信
 
天草架橋着工決定の年の年頭の天草島民へのメッセージ

池田勇人内閣による日本の高度経済成長の始まり、所得倍増計画の始まりの年です。
こんな中で、都会と田舎の格差を解消する為にも天草架橋の実現は不可欠でした。
経済成長で生じる脱落者にも目を向ける政治の必要を延べています。
中学卒業後の実業高校(現天草工業高校)についてものベています。(当時は熊本と八代にしかエ業高校はなかった)
この年の六月二十六日、森国久氏は出張先の熊本で倒れ、亡くなった。48歳だった。



昭和36年ことしの展望(天草民報)ことしの天草も多忙
森国久
昭和36年も忙しい年になりそうです。六日七日と本年度の離島予算の最後の接衝のため五日に上京、引き続き問題の「天草架橋」で滞在、九日には寺本知事を初め地元県議、中央世話人と合同会議を開き、公団の二億要求-本年度着エの旗の下に、その実現を期する”勝負”万潮時が来たと思います。そして十日、十一日は全国町村長大会です。
  選挙に臨むこと三回-二十六年から十年になります。一日も無駄なく懸命であったつもりですけれど、思い半ばです。私はいつも思います。「政治の心」は、その住民の生活がーより豊かに―より安全に―さらに―いついつまでも、変わらないで安心して暮らせることにあると、・・・・。
    今日ほど差のひどい時代はない様な気がします。
都会と田舎の差、なかなかおい追いつけない地域の差、所得の格差、そして暮らしの差。どうすれば「その差」を縮めることが出来るかが、身近に迫る今日の課題ではないでしょうか。
「天草架橋」を一日も早く実現することも大きな解決の一つ、と思います。
離島振興法は後二年で終ります。これを延長することは、もちろんですが、私たちはこの際、住民の血となり肉となる「産業振興計画」を急がねばならない気が致します。私たちの町でも、新春早々この問題と取り組み「五カ年計画」を実施するため各界人を集め、常置機関として、その計画を検討するように致しております。
    中学の整備を急ぐのも大事ですが、その後に来る高校進学も大きな問題となります。実業高校を天草に実現したいのは天草人の願いでもあります。その場所が問題をはらむのでは、と今から心配されます。少なくども考えを統一して、大局につかねばなりますまい。
ー月ー日から龍ヶ岳町は“福祉三法”(条例)を実施しました。産業、文化の振興を図れば図るほど・・・所得倍増の時代であればあるほど・・・脱落者を心配することをわすれてはならないと思います。暗い谷間を明るくする社会福祉。満足ではありませんが「底辺の線のささえ」になればと思う気持ちのあらわれです。
    元日に当たり“けいけん”な気持でー杯です。とまれ、現実を踏まえながら、理想を持ち、夢を追い、龍ヶ岳町を愛し、そして、郷土「天草」の発展を希うことの思いを深く致します。(龍ヶ岳町長、天草町村会長)



  • [79]
  • 森国久の「随筆」より

  • 投稿者:ごほんガゼ
  • 投稿日:2015年 7月 7日(火)13時45分47秒
  • 返信
 
森国久氏は折りにふれて、天草の地域紙に投稿しています。
以下は「天草新聞」一千号を祝い、投稿されたものです。
戦後12年目になる天草の現状もからめて、マスコミ(新聞)界の重要さにも触れています。(昭和32年2月の天草新聞より)




天草新聞ー千号を祝して
天草振興協議会長・龍ヶ岳村長        森    国久

ドイツの或る有名な指導者がまだ名もなき-青年の頃アルプスの山を横断したことがあった。
白雪の山又山の中で道に迷い、極度の空腹におそわれまさに餓死しそうな状態になった時、やっと―軒の家を見つけてよろよろとたどりついた。
そこで恥も外聞もなくー片のパンを求めた。処がその家の母親が、しぶしぶと小さなパンを与えた。それを中から見ていた子供達が「物もらいか」とたずねたら母親が「乞食だ」と答えた。
彼は一切のパンを口に入れながら、その家を立ち去ろうとして・・・「乞食」という言葉にハツとした・・・正に目のくらみそうな空腹を、じっと耐えて、口に入れたパンをつまみ出して道にすてた。
そして、疲労と空腹に耐えながら、雪をなめてアルプスを越したのであった。
彼は後日ドイツの世界的有名な指導者になった。
吾々は終戦後十年、ここにやっと明るい平和な国として世界の仲間入りをすることが出来た。それこそー片のパンを求め、血の滲む苦労もしたが、まがりなりに生きとし生きて今日の社会が出来たのである。
お互の郷土愛に燃える心は島民の誇りであり又希望である。昔から天草は夢の島、歴史の島として、広く知られた所であるが、時代と共に現実の島、無限の島、希望の虹である。すでに離島振興法による港湾、漁港、道路等の改修、或いは電気施設、簡易水道等の文化向上や天草架橋の実現、本渡瀬戸開発事業等、観光天草、産業、文化の天草として日ー日と新しいスペースによる郷土の発展が望まれ、約束されてぃる。
ドイツの青年の様に幾度かアルプスを越える様な人生の巻頭に立ち、更に生きづまる事もあると思うに、特に社会の自由をモットーとしている新聞界には幾多の難事が横たわり或いは直面されたであろうに・・・よくここまでと感動するものであります。
関係者の皆様の感慨も亦無量でありましょう。今更ながら田中社長初め関係者の方に深い敬意を表する次第です。
目まぐるしく変転する社会という渦潮の中に新聞こそ新らしいものを新らしく、常に前進して止まぬ私達の求める新らしい知識の源泉であり、流れ動いて行く人生の灯台であり、世道人民の道しるべである。自由と平和と勇気を与えるのも又新聞である。
そして、又日常私達の身近にあって親しみを感ずるのも新聞である。
アルプスを越え、飢えに耐え、自由を求めて行った古人の若き燃える心の郷土新聞として、今後尚ー層の発展と御努力を希望すること切です。
昭和32年2月6日

  • [78]
  • 龍ヶ岳町発!天草架橋実現の歴史 森国久と天草 No.66

  • 投稿者:ごほんガゼ
  • 投稿日:2014年 5月20日(火)18時06分34秒
  • 返信
 
作家、島一春と森国久(龍ヶ岳町初代町長)

   これまで、天草架橋実現運動と「森国久龍ヶ岳町長」の関わりを地方誌史等からたどってきました。これからの天草の行く末、政治のあり様、人生のあり様に想いを馳せた一年でした。このたび、天草の文学者の視点から森国久氏の人物像を追って見たい。

天草のために10年間、命がけで「鬼」の様に突っ走った情熱は、何であったのか?

没後50年以上が経過し、多くの関係者も亡くなられ、残された資料からしか私は森国久氏を知る由がありませんが、その魂の根底を流れるヒューマニズムに触れ、私の心を動かしこれまでの掲示板に掲載継続の原動力になったのは確かです。

森国久氏と親交があり、 天草を代表する文学者、島一春氏は、森国久氏没後10数年後に「忘れえぬ人」として回想しており、「のさりの山河」「野いちごの首飾り」等多くの著書でもその人となりを紹介しています。
森国久氏の島一春氏との交流のなかで発せられた言葉や、貧しい天草の民への熱い想いに触れ、心にしみました。

(以下は天草の地域新聞「週刊みくに」昭和49年に5回にわたって掲載されたものです。
この記事は、その後の島一春氏の著作で発表されていません。また、「週刊みくに」は現在廃刊となり著作権の関係は不明です。もし、不都合であれば、削除いたしますので、この談話室までお知らせください。)





島一春(1930年~2008年)

あなたはつつましい野の花のように

はなやかな色の大輪の華よりも

私は野の花が好きです

〈島一春墓石の碑文より〉

天草が生んだ名作家、島一春。

島一春は、昭和5 年上天草市龍ヶ岳町大道(現)で、生まれた。村の小学校を卒業後、熊本の航空機整備士養成所に入所する。その後新潟の同養成所に移るが、終戦を迎えて帰郷する。その後、肥料会社や石灰採掘所などに勤務する。
20 歳で、幼馴染と結婚。しかし、過労から結核を患い、長の闘病生活を強いられる。献身的な妻の看護もあり、やがて回復。以後は、作家生活に入る。数多くの著作をしているが、代表三部作として『燃える蝶』『燃える海』『野苺の首飾り』があげられよう。また、天草探見でも取り上げている、牛深沖で巡洋艦長良沈没した犠牲者の供養碑を、自費で建てた佐々木つるさんの事をまとめた『天草灘にひびけ鎮魂の譜』「のさりの山河」(自伝)もある。

◆ あゆみ

昭和5 年熊本県天草郡大道村(現上天草市龍ヶ岳町大道)に生まれる。

本名    赤瀬  一春

昭和19 年熊本地方航空機整備士養成所に入所。

昭和20 年新潟養成所で終戦を迎え、帰郷。

八代市の小築島砕石所(石灰岩)に勤務。

昭和24 年福岡県大牟田市の肥料会社に勤務。

昭和26 年結婚。

肺結核を発病。以後9 年間の療養生活に入る。

昭和30 年上京。

昭和32 年「老農夫」が第4 回地上文学賞受賞。

昭和34 年『無情米』が第3 回農民文学賞受賞。

同年11月、龍ヶ岳町が創設した「龍ヶ岳文化賞」の第一回受賞者として顕彰された。


昭和52 年長編小説『燃える海』が第16 回小説新潮賞候補となる

平成20年6月22日没



*「天草探見」に一部加筆



(1)忘れえぬ人々   (週刊「みくに」昭和49年6月14日号)
島    一春   著


「竹と鉄」

 森国久氏 その1

大道、高戸、樋島の三村が合併して龍ヶ岳町が誕生し、第一回の村長選挙が行われたのは、昭和二十九年の七月であった。

 この年、私は発病三年めで、八代の病院からいちおう退院し、自宅療養していた。自宅療養といっても、病床に臥せていたのではない。病気は中康状態で、十数羽の鶏を飼いながら、小説を書いていた。

 初代村長に立候補したのは二人で、一人は森国久氏だった。だが私は、候補者には二人ながら面識がなかったし、どちらが勝っても、さして関わりのないことだと思っていた。けれど、親戚すじにあたる人が、もう一人の候補者と親しい間柄でそういうことから、私は、その候補者を支持することになった。森と対立的な陣営に加わることになったのだ。

 選挙というものは妙なもので、とういうより想像もしなかった感情的な戦闘意識が燃えあがるもので、単なる支持者のつもりだった私は、運動員になり、必死に駆けまわる結果になった。

 私は二十四歳だった。男は意地と志をもたねばならぬ、節を屈するは男の恥辱なり、と口にしそれを自負していた。若い血気、青くさい稚気といえばそれまでだが、不惑をすぎたいまでも、性来の稚気の虫はなお生きている。戦うことを決意した私は、懸命に、選挙運動をした。つまり森の向うずねに矢を放ったのである。


 結果は、森の堂々たる圧勝であった。私は口惜しくて、その夜は焼酎を暴飲した。

 この選挙の翌年梅雨どきに、私は大喀血した。陰鬱な雨がトタン屋根をたたきながら降りしきる夜、つぎを当てた古い蚊帳の中で、怖しいほど鮮やかなぬるぬるした血を吐いたときの戦慄と死の恐怖は、いまも忘れることはできない。

 父六十六歳、母はリュウマチで歩行不能、長女三歳、二女は妻の胎内に宿ったばかりであった。

 パス、ストマイ、ヒドラ、という結核の薬が開発され、肺結核は不治の業病ということばは色褪せつつあった。だが、大気、安静、栄養という療養三原則は守られていた。空気のよい所で、栄養をとりながら、安静にし、体力で病気を治すという原則である。

 私の家は二反ばかりの畑を耕していた。龍ヶ岳のふもとの段々畑である。自給自足にはほど遠いこの畑と、一年間に三万二千円の障害年金が一家五人の生活源であった。

 一ヶ月にすれば、二千七百円足らずの障害年金では、栄養もとれず、薬も買えない。私は生活保護法を受けることにし、その年の九月十三日、栖本療養所に入所した。そして、はからずも、この療養所で森と初めて顔を合わせたのである。
(文中敬称略)



(2)忘れえぬ人々   (週刊「みくに」昭和49年6月21日号)執筆「島  一春」

竹と鉄 森国久氏 その2


梅雨の暗い雨が降りしきる夜、これで命が尽きるのではないかとおののくほどの大喀血をした私は、生活保護法を受け、昭和三十年九月十三日、栖本療養所に入所した。夏の激しさを失った初秋の海が、ものがなしく映える晴れた日であった。

 家には六十六歳の父、リュウマチで不具同然の母、三歳の長女、身重な妻が残っている。私の病状は、左肺鎖骨下に鶏卵大の空洞、右肺の巨大な浸潤で、いつ病い癒えて退院できるのか、まったく予測もつかない。残してきた家族のこと、おのれの命のゆくすえを思うと、療養所のベッドに安静していても、心は乱れ騒ぐのである。

 それもあるが、現実問題として、家族は食うや食わずの生活だった。当時、私は年間三万二千円の障害年金をもらっていた。月額二千七百円たらずであるが、天草福祉事務所の山科というケースワーカーはこの年金に着目して、私に月額千二百円の入院費一部負担金を命じたのである。

 これには、いささか理由がある。生活保護法による入院を申請すると、ケースワーカーが地区の民生委員と同行して、実態調査にくるのがたてまえになっている。しかし私の家には、山科が一人でやってきた。山科は、つぎの当たった着物をきている手足の不自由な私の母を、眼鏡の奥から、醜い動物でも見るような眼差しで見くだし、たいそう高慢な口調でこう言った。「生活保護を申請するときは、まず地区の民生委員に相談することになっている。きみは、それを知らんのかね」

 うかつだった、と私は後悔した。私は役場に勤めている先輩に、生活保護のことを話したのだった。

「知りませんでした」

「知らんじゃすまないよ、きみ。民生委員からきく事柄が、われわれの調査の基礎になるんだから、うん」

民生委員に相談するという正当な手続きを踏んでいないので、きみの生活実態はわからない。困るじゃないか。と私を責めながら、しかし彼は私が大牟田の会社に勤めていた頃、労働組合の運動をやっていたことを話してみよ、と言う。

「そんなことが、保護法とどんな関係があるとですか。そればまず説明してください」

今にして思えば、おとなげないことであった。国民は誰でも保護法という法律に守られ、それを受ける権利を持っている、という気持ちがあった私は、思い上がった人間に見えただろう。しかし、山科の横柄でかさにかかった態度や口ぶり、強者が弱者にのぞむ傲慢な姿勢に刺戟されて、私の感情はたかぶっていたのだ。

「きみ、保護法からける金は、国民の税金なんだよ。その言い方はなんだ」と彼は言った。そういうてめえも、その税金で月給もらっているんじゃねえか、と私は思った。

 調査後、二週間以内には何らかの連絡、通知があるーと申請書の裏には明記してあった。がしかし、調査は六月下旬、入所通知がとどいたのは八月下旬で、しかも千二百円という負担金を命じられたのである。

 入院してほかの患者の場合を聞いてみると、私の負担金が常識の枠を越えたものであることがわかった。私は療養所で使う金も、千円はいる。その頃は、保護法でさえ、病院での一ヶ月の日用品代として六百円が支給されていた。

 月額二千七百円の年金から、その六百円を差し引き、さらに千二百円の負担金を納めると、四人家族の一ヶ月の生活費は九百円しか残らない。これでは餓死せよ、というも同然であった。(文中敬称略)



(3)忘れえぬ人々   (週刊「みくに」昭和49年6月28日号)執筆「島  一春」

竹と鉄 森国久氏 その3

私が栖本療養所に入所した後 、家族の生活はほとんど極限に達していた。粗食というより、三度の食事のうち一度はからいも、一度は麦だけのめしという具合で、畑に出て働く身重の妻は栄養失調症のきざしが歴然とあらわれた。

私は窮状を訴え、入院費の負担金免除してくれるよう、数回にわたって天草福祉事務所 のケースワーカーに手紙を出した。が、一通のハガキすら来ない。毎月一回、巡回してくる ケースワーカー の山科に、妻や老母は涙を流して懇願したが「ふーん、そうか 」と呟き去るという。
私は心が煮え返った 。何んという卑劣きわまる報復であろう。考えると夜も眠れないのである。
    私は思案に余った末、村長の森国久に手紙を書いた。
ー私は村長選挙のときあなたの対立候補だった人の運動した男です。正直に書くと、あなたから一票の表をもぎ取ろうとして、懸命の運動に奔走しました。ふつうの感情や思念では、この手紙を差し上げるのは恥ずかしくて、とてもこんなことは書けたものではない。それはよくわかっていて、敢えてこの手紙をしたためます。
    という書きだしであった。そして、家族の生活の苦しさを綿々と訴え、入院費免除はできないものだろうか、と書いた 。すると折り返し返事がきた。
生活保護法は社会的に弱い者の生活を支えるためにある法律です。そのような実情であれば、法律の精神に反することは明らかであります。政治の究極の目的は、みんなが平和で豊かな生活を送れる社会を築くことであり、私も政治家のはしくれの一人として、あなたの現状を見逃すことはできません。できる限りの運動をし、あなたが望まれる状態になるよう努力します。 どうか、くじけずに療養し、再起されるようお祈りします。
    という意味の 手紙であった。目立たない一本の草、小さな石ころも大切にするという、森の人間的な思想が行間にほとばしり、情愛と正義感に満ちた手紙であった。
    この手紙に、私はどれほど勇気づけられたことか。涙もでないほどの感動という表現があるならそれはそのときの私の心情にぴったりである。
    私は森に注目し、森を観察するようになった。森は私だけではなく、選挙のおりの報復をしなかった。選挙のときは敵陣営の者でも、森の扉を叩けば、こだわりなく迎え入れたように思う 。
    口で言うは易いが、これほどの度量と人間的な深さがなくては、できない業だ。選挙のとき敵味方に分かれれば、親戚同士でも選挙後までしこりを残し、憎み合うのが選挙と言うものの暗鬱な特色なのだ。それを森はさわやかに飛び越えることのできる男であった。
森の運動が奏功したらしく、やがて、私の入院費一部負担金は免除になった。たかが 1ヶ月千二百円と思われる人もいるかも知るれないが、20年前の私たちにとって、これはまさ生き返る思いだったのだ。
(文中敬称略)




(4)忘れえぬ人々   (週刊「みくに」昭和49年7月5日号)執筆「島  一春」

竹と鉄 森国久氏 その4

    大原富枝は「ストマイ つんぼ 」という 小説で 女流文学賞を受賞したが 、「耳の奥で太鼓を打ち鳴らし、激しい蝉しぐれがわきあがるような絶え間ない耳鳴りである」とその作品に書いている。
    ストマイの注射を六、七本もうつと、私もその激しい耳鳴りにおそわれた。耳鳴りが進行してたかまると、やがてストマイつんぼになることはわかっていた。わかってはいたが、ストマイの注射をうたないと、私の病状が悪化することも明白で あった。
    私は時計の秒針の音で 聴力を測ってもらいながら、つんぼを覚悟でストマイの注射を打ち続けた。(今では、補聴器を使わないと、小声の話は聴こえない )
    ストマイの注射を打つと、病状はいちおう安定したかにみえたけれども、全治はおぼつかなかった。退院の見通しはつかない。
そんなとき、母が病に倒れ、私が入院後三ヶ月を経過した、その年の暮に永眠した。
    私は深い絶望感にひしがれ、体重が五キロも減った。
    だがしかし、 母の死と入れかわるようにして二女が生れたし、家族は私の退院をひたぶるに待ちわびている。
    母のことを思い、妻子のことを考えるのが、恐ろしかった。真っ暗な底なし沼に、じりじりのめり込んでいくような幻覚を振り払うために、私は小説を書き続けた。
そうして書いた。「労農夫」という小説が家の光協会の第四回地上文学賞を受賞した。
その年ー昭和31年の秋、天草を台風が襲い、崖崩れ、海岸道路の決壊など 大きな被害を受けた。
台風後、十日も過ぎた日のことであったろう。「面会です」と呼ばれて 病室を出て行くと、玄関に、髪のちぢれた面長な顔立ちの男が立っていた。
   菜っ葉服を着ており、汚れた半長靴をはいた男だった。眼光が鋭い。が、私にはそんな知人はいなかった。
「島ですが・・・」
    とけげんな眼を向けると、「森です。思ったよりも元気そうで、安心しました」
と笑顔になった。眼から鋭さが消え、人なつこい顔になった。
    このとき、私は森と初めて言葉をかわしたのである。
   気を強くもって療養してくれ。小説は書き続けるようにーと森は激励してくれた。その言葉や態度に、私は竹のような柔軟な情感と、鉄のように堅い男の意志を感じた。頼りになる男ーというより、頼れる男だ、と思った。
   その後、森は忙しい政務のあい間に、激励の手紙を何回くれたことだろう。また、森の奥さんは、私のあばら家を訪ねて、妻を励ましてくれたのである。
    町長の奥さんがきて、子供にみやげ物をもらった、私にこう言ってくださった、という妻からの手紙が届くたびに、私の胸は熱くなるのだった。

(文中敬称略)


(5)忘れえぬ人々   (週刊「みくに」昭和49年7月12日号)執筆「島  一春」

竹と鉄 森国久氏 その5
(最終回)

昭和三十三年、私は三角戸馳療養所で胸の手術をした。初めての創作集「無常米」を出版したのは、その年の暮のことである。
この本を出版するにあたっては、龍ヶ岳町の先輩、親戚の人、知人などたくさんの人びとの温かい支援を受けた。友情と支援によって、「無常米」は陽の目をみた、というほうが正しいかも知れない。
    森は、この出版をたいそう歓んでくれた。そして、一万五千円の金を貸してくれたのである。いまの十万円にも匹敵するだろう。
「やると言えば、あんたが拒むだろう。払えるようになったとき、十年後でもよい。いちおう、貸すということにしよう」
と森は笑いながら言った。そして、その後その金のことについて、ついにひとことも言ったことがなかった。
「無常米」は第三回農民文学賞を受け、東京まで賞をもらいに行かなければならぬ破目になった。が、旅費がない。宿泊費もない。授賞式を断念しよう、と私は思ったのだが、このときも、友人や親戚の援助で、どうにか上京できたのであった。
森に報告すると、「東京に着いたら、何月何日ごろ、新橋駅のホームで逢おう」という。森もそのころ上京の予定があったのである。
言われた時刻に新橋駅のホームに行くと、
「よう」と笑いながら近寄ってきて、「私も授賞式に出たいが、どうしても時間のやりくりがつかない。天草の男として、胸を張って賞を受けてくれ」
と私の肩を叩いた。兄のようでもあり、父のようでもあった。初めての東京ではあり、ひどく感傷的になっていた私は、そのやさしい言葉に、不覚にも眼を潤ませてしまった。「しっかりしろ。天草に帰ったら、改めて祝盃をあげようじゃないか」
森は別れぎわに私のポケットに封筒をねじ込んで去った。開いてみると、一万円はいっていた。この一万円が私の帰りの汽車賃になったのである。
森は「龍ヶ岳町文化賞」を昭和三十四年に設立した。いまでは無くなったようだが、その第一回文化賞を公民館運動で功績のあった江口潮と私が受賞した。が、授賞式後の座談会で、
「もっと町民の側に立った文化を考えてほしい。町の文化は中央からの移入ではなく、町で育て、町でつちかうものだ」と私は森にかみついた。森は、もちろん舌鋒鋭く反撃したが、そのとき顔を会わせたのが最後となった。それが、いまも私の心底でうずいている。
森についての思い出は尽きるところがない。
    森の政治的業績、その生の軌跡、人間性などについては、いずれ一冊の本にまとめてみたいと考えている。森は、それだけの器の広い人間だったし、その生きざまは起伏にみちている。わが町龍ヶ岳町の戦後の歴史、天草の歴史を彩る人間であったことには相違ないのである。冥福を祈る。
(文中敬称)












  • [77]
  • 天草架橋実現への道No.65

  • 投稿者:ごほんガゼ
  • 投稿日:2014年 4月12日(土)14時49分49秒
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昭和36年 その10


    昭和36年5月、森国久龍ヶ岳町長は「天草架橋期成会副会長」として寺本県知事と共に国や道路公団への陳情のため上京し、同年7月、「天草架橋」が正式に道路公団より提案されました。


<道路公団から正式「天草架橋」提案>

<天草架橋 今年度着工   四十年度完成

予算は公団二六億五千五百万円熊本県一億五千五百万円で大詰>



    かねて天草郡市民の熱望していた天草架橋が、再発足した池田内閣で本決まりとなりそうで、天草の文化、産業に新紀元を画する事となった。天草架橋期成会は昭和29年12月に設立以降、度重なる陳情を繰り返し、24万島民の努力が期成会設立以来やっと六年六ヶ月振りに結実し、今年度着工、昭和40年度完成が確定的となった。

   これは、7月26日道路公団から寺本県知事宛電話連絡があったもので、公団では「熊本県が公共事業として一億五千五百万円を負担すれば、総工費二十六億五千五百万円で今年着工する」と通知があった。寺本県知事は直ちに天草選出の県議団と話し合いを行った結果、熊本県で一億五千五百万円を負担することに話し合いがつき、直ちに寺本県知事は「道路公団の計画を了承した旨」回答したと、蓮田県建設委員長から天草郡町村会に二十六日午後二時頃電話連絡があった。なお目下開会中の七月県議会では県負担の一億五千五百万円を了承するものと見られ、今度こそは多年の願望達成疑いなしという朗報である。

(みくに新聞記事から昭和36年7月28日)



{ごほんガゼコメント}

昭和36年5月の森国久龍ヶ岳町長、寺本県知事等の上京・陳情により道路公団から最終的な天草架橋実現への具体的な予算額が提示され、九州本土と陸続きになるという、天草島民、永年の夢がようやく叶うことになった。やっと、「天草架橋実現の日」が目前に迫ってきた。 昭和28年、森国久氏が天草架橋実現のための最初の上京・陳情から7年目だった。



この後、建設大臣の天草訪問と天草架橋実現の確約、大蔵省の予算案計上を経て正式決定し、昭和37年7月3日、高松宮殿下を迎えて起工式の実施。そして、昭和41年9月24日の開通式と続きます。





  • [76]
  • 天草架橋実現への道No.64

  • 投稿者:ごほんガゼ
  • 投稿日:2013年12月18日(水)22時09分30秒
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天草架橋実現への道No.64


昭和36年   その9


{ごほんガゼコメント}

天草架橋実現に欠かせない、海岸線の環状道路がようやく貫通することになった。昭和35年に完成した本渡の瀬戸橋とあわせて架橋実現へ大きく前進した。



(みくに新聞記事から昭和36年6月2日)

<本年度中には島の海岸道路が貫通>


熊本県道路課の計画によると、天草島民多年の念願である下島海岸線の環状道路が本年度中に貫通する見通しとなった。来年三月までに完成を予定されているのは天草町大江の軍ヶ浦~崎津間をはじめ、牛深市久玉~深海間、新和町舟津~宮地浦間の三カ所でいずれも距離は五キロ程度だが、岩盤が海に迫った難工事のため今だに道路がなかったもの。これが出来上がれば本渡市から五和~苓北を経て西海岸を南下、下田温泉~大江~崎津~牛深を回り、河浦~新和町を抜けて本渡に戻る下島海岸一周自動車道路が貫通する。このうち大江~崎津間は景勝で、また崎津天主堂は有名であったが、交通不便のため観光客が殆ど訪れず地元民の悩みでもあった。
一方、上島の龍ヶ岳~大道線も既に開通し、後はバス運行待ちとなり、龍ヶ岳~松島線の新設工事も着々とすすんでいる。これが完成すれば、合津~姫戸~龍ヶ岳~倉岳~栖本~下浦の上島環状線も出来上がり
、産業民生面ばかりでなく観光面に大きなプラスになると同時に天草全体環状線の夢も実現することになる。

  • [75]
  • 天草架橋実現への道No.63

  • 投稿者:ごほんガゼ
  • 投稿日:2013年12月 1日(日)09時26分45秒
  • 返信
 
天草架橋実現への道No.63

昭和36年   その8

<最後の詰め、寺本知事と共に森国久町長上京>
<架橋後に向けて、農業者の成人大学開講、龍ヶ岳町>

{ごほんガゼコメント}
天草島民、長年の念願である天草架橋実現も大詰めとなり、森国久龍ヶ岳町長は寺本県知事と共に上京した。氏にとって最期の陳情になってしまった。氏の地元龍ヶ岳では、架橋開通後を見据えて農業者の成人大学を開講し、町長みずから教壇に立った。


(みくに新聞記事より昭和36年5月19日)
<上京して架橋起工式を打合せ>

天草の産業と交通、観光上島民の念願である天草架橋問題も愈々大詰となり、これを裏書きするかのように、5月23日には建設省の三野、斎藤両技官と道路公団梶川技官が来島して、船で三角の架橋地点を視察、大矢野に渡り天草架橋連絡道路を視察する事になっている。一方地元の期成会では5月23日寺本知事、蓮田県議、森国久龍ケ岳町長、森大矢野町長、鶴田振興協議会事務局長等五人が上京、関係当局に強く陳情する事になった。この新しい局面に至った理由としては、先に天皇、皇后両陛下の長崎佐賀巡幸の際、雲仙山頂で岸道路公団総裁が天草架橋説明を行った際、今年度着工する事を明らかにしたためであり、大久保武雄大蔵政務次官も帰熊の際「天草架橋費初年度の事業費として一億円の予算化を主計局長に命じたので、初年度の事業費一億円は確実だ」と語った事から、俄かに動きが活発となったもの。このため、鶴田振興協議会事務局長が4月15日発足した大矢野町天草架橋後援会の席上「天草架橋が愈々一億円の予算で今年度着工の目算が立った現在、天草としては中村建設省大臣、岸道路公団総裁が5月中旬来島が予定されているので、その際天草架橋の起工式を行なうべきでないか」と語ったところから起工式の話が持ち上がっている。

(龍ケ岳広報昭和36年5月22日)

<森国久町長上京>
寺本知事、蓮田県議とともに、天草架橋問題で上京。これで本年度事業着手が本決まりとなり事業費は30億円だと言われる。



(みくに新聞記事より昭和36年5月19日)
<龍ケ岳町で畜産果樹を拡大>

龍ケ岳町では農業の拡大発展を目標に町民の総力を結集して養鶏百万羽、養豚一万頭、果樹百㌶の達成を計ろうと五カ年計画を樹立、各部門ともすでに発足したがこの目的完遂は農業者の勉強が第一と龍ケ岳町公民館が中心となって成人大学講座を開講した。第一講座はこのほど行われたが、約50人が出席、森国久町民の農業基本法農業近代化施設資金制度などの話を聞いて認識を新たにした。同講座は毎月二回夜8時から9時半まで学習、その後三十分間懇談会を開くことになっている。学科は「果樹園芸学」「畜産学概論」「季節の養鶏、豚」「最近の農政事情」「農業法規、資金関係法令、手続きの研究」などとなっており、教材映画や先進地域視察なども折り込むことになっている。なお、講師は県農業課、県畜産課技師、県果樹指導所長、県家畜保健衛生所長等が予定されている。


  • [74]
  • 天草架橋実現への道No.62

  • 投稿者:ごほんガゼ
  • 投稿日:2013年11月30日(土)19時50分43秒
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天草架橋実現への道No.62

昭和36年   その7

<着々とすすむ天草の道路網>

{ごほんガゼコメント}
天草架橋実現に欠かせない島内の道路整備はさまざまな予算を利用してすすめられた。中でも、離島振興予算は天草の開発を助けた。
天草全島環状線も目前だった。
昭和36年度全国離島振興協議会全国大会は4月26日島根県玉造温泉で開かれ、森国久氏が副会長に、横山寛人、平井正弘両氏が理事に西本初記氏が監事に選任された。


みくに新聞記事より昭和36年4月14日)
<本年度の離島振興費、総額九億三千万円   昨年度より三億円の増>

本年度天草離島振興実施計画がこのほど決定した。それによると今年度の天草離島振興事業は道路、港湾など13部門で、事業費九億三千余万円、昨年度より三億円の増額となっている。事業の大要は次の通り
①道路    主要道路本渡~大浦線三千万円、一般地方道路改良事業として天草町、苓北町、大矢野町、松島町、新和町など一億四千余万円、村道改良として御所浦村の九百万円。県道特殊第一種、第二改良工事として苓北町、龍ケ岳町、倉岳町、天草町など二千六百万円、舗装補修工事が牛深市、本渡市で720万円、有明町の橋梁整備事業990万円。以下略

(みくに新聞記事から昭和36年6月2日
)
<本年度中には島の海岸道路が貫通>

熊本県道路課の計画によると、天草島民多年の念願である下島海岸線の環状道路が本年度中に貫通する見通しとなった。来年三月までに完成を予定されているのは天草町大江の軍ヶ浦~崎津間をはじめ、牛深市久玉~深海間、新和町舟津~宮地浦間の三カ所でいずれも距離は五キロ程度だが、岩盤が海に迫った難工事のため今だに道路がなかったもの。これが出来上がれば本渡市から五和~苓北を経て西海岸を南下、下田温泉~大江~崎津~牛深を回り、河浦~新和町を抜けて本渡に戻る下島海岸一周自動車道路が貫通するる。このうち大江~崎津間は景勝で、また崎津天主堂は有名であったが、交通不便のため観光客が殆ど訪れず地元民の悩みでもあった。
一方、上島の龍ヶ岳~大道線も既に開通し、後はバス運行待ちとなり、龍ヶ岳~松島線の新設工事も着々とすすんでいる。これが完成すれば、合津~姫戸~龍ヶ岳~倉岳~栖本~下浦の上島環状線も出来上がり
、産業民生面ばかりでなく観光面に大きなプラスになると同時に天草全体環状線の夢も実現することになる。

  • [73]
  • 天草架橋実現への道 No.61

  • 投稿者:ごほんガゼ
  • 投稿日:2013年10月27日(日)21時25分13秒
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天草架橋実現への道  No.61

昭和36年   その6

<道路公団、架橋計画発表。まずは予算一億円!>

{ごほんガゼコメント}

架橋完成後の一日の交通量、800台、25年で償還を計画していたが、現在では夏のピーク時には観光・海水浴などで自動車の通行量が1日平均2万5000台にも上り混雑する。

(みくに新聞記事より昭和36年2月3日)
<天草架橋費 初年度一億円計上 三箇年完工の見通し>

天草架橋早期実現と港湾整備予算の陳情のため1月9日寺本知事、蓮田県議会建設委員長をはじめ郷土出身の県議団や各市町村長が大挙上京して関係方面に波状陳情を重ねていたが、道路公団では初年度(昭和36年度)に一億円の架橋調査費、即ち有料道路の新規建設計画を発表した。これは道路公団の部長会及び理事会で決定を見たもので大蔵省、建設省も同意するものと見られる。道路公団の発表によると熊本県では天草の道路を22億円の総工費で昭和36年度着工、38年度までに完成するというもの。
「天草架橋実現による経済効果には①熊本県内で最もおくれている天草島の産業の開発を促進する②北九州及び熊本本土と天草の経済交流を活性化する③雲仙~天草~阿蘇~別府或いは雲仙~天草~霧島~日南を結ぶ新しい国際観光ルートを形成する④天草自体の観光開発を促進するなどが挙げられ十年来の島民の悲願が成就する見通しとなった」
また、架橋実現後は一日600台から800台の貨物車、自家用車、バスなどが通過するものと見込まれ、架橋のために要する22億円は、25年間で償還出来るものと見られる。然し、1日に600台から800台に及ぶ諸車が天草に流れ込めば、天草の道路が狭いため相当の混乱が予想される。また、農産物、水産物、木材、果樹などの貨物の往来が激しくなることは島内道路の赤信号ともなり、観光客の増加と天草の経済発展にも大きな損失となると見られる。このため熊本県道路課では天草の道路網整備に本腰を入れることになり、今年度の調査費として約60万円を要求している。現在の天草の主要道路でも幅員が4㍍程度で、バスをはじめ諸車のスピードは自ら制限され、加えて前方から車がくればバックせねばならず、せめて主要道路は幅員6.5㍍位までに拡張して二台のバスがゆうゆうすれ違われる程度にしたいというのが県の考え、それに経済企画庁では離島関係の国庫補助率を現在の三分の二から四分の三に引き上げたい意向だから、天草の道路に投入される国費も35年度の約一億円が二割前後増額されるものと思われる。また、架橋が完成すれば他県の離島から「天草は離島でない」との非難をあび、天草道路の整備にも横槍が入るのでこの際「天草道路整備計画」を立案、地元の協力を得て併行推進する模様である。

  • [72]
  • 天草架橋実現への道 No.60

  • 投稿者:ごほんガゼ
  • 投稿日:2013年10月27日(日)16時53分58秒
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天草架橋実現への道  No.60

昭和36年   その5

<町の建設地帯をゆく   大道から赤崎浦越まで>

{ごほんガゼコメント}

天草架橋着工を目前に控え、天草循環道路の一環として、上島東海岸道路、松島から姫戸、龍ヶ岳、倉岳、栖本、本渡がいよいよ貫通しようとしていた。


(龍ケ岳広報昭和36年1月1日)

「去年の郡離島振興関係の道路建設の投下予算は一億二千万円だったが、その約55%、六千六百万円は龍ヶ岳町大道から赤崎浦越までの県道開発工事に使われている。いわゆる池の浦ー本渡線の工事であり、一歩足を大道地区に踏み入れると大道青年研修所がすでに着工されており、西浦から池の浦沿線の拡張工事が随所に見られハッパやコンプレッサーのひびきが山にこだまし、トロを押す人、道を切り開くツルハシを振るう町の人びとの群れが延々として続く。次に赤崎では赤崎神社下の難関切通の工事は五分通り完成し、本格的な浦越外目地区の県道開発は大型ブルドー ザーが活躍しており、三百人分の工程をアッという間に一日で仕遂げるという素晴らしい進捗ぶりである。この二、三日で延長180mを開削、あと700mの浦越が打通するのも間近いことだという。一日見なければ、すっかり顔かたちを変えてしまうといわれる大道地区、建設の譜は道なきいばらを切り開く郡中の道路工事がここ大道に集約されているものすごさだ。建設ブームが渦を巻く大道地区はやがて新春とともに道路に、産業文化に僻地性が一夜にして昔語りになろう。



(龍ケ岳広報昭和36年2月5日)
今年の陽春四月には建設中の池の浦~本渡線が貫通し、懸案久しかった上天草環状道路が実現する。これでパイプがつながり、血液が循環し、住民の血色が蘇ってくる。棚底に行くのに一日がかりでゆく不便もさることながら地域的に袋地になって動きのとれなかった大道から赤崎までの地帯は何と言っても恵まれない僻地中の僻地だっただけに県道の完工は目出度い限りである。

写真は大道赤崎外目の道路工事に威力を発揮する大型ブルドーザー





  • [71]
  • 天草架橋実現への道 No.59

  • 投稿者:ごほんガゼ
  • 投稿日:2013年10月27日(日)16時48分50秒
  • 返信
 
天草架橋実現への道  No.59

昭和36年   その4

<東京に於ける天草架橋陳情状況
横山本渡市長は語る>


( みくに新聞記事より昭和36年1月20日)
天草架橋の促進陳情をはじめ港湾整備予算の陳情、等で昭和36年1月7日上京した横山本渡市長は1月14日帰島、陳情の模様や天草架橋の問題等について次の様に語った。
「天草架橋の促進陳情は1月9日、寺本知事、蓮田県議会建設委員長、郷土出身の全県議団、森国久町村会長、鶴田事務局長等が出席して幹事会が開かれ郷土出身の吉田、園田両代議士にも連絡を取り出席を待って打ち合わせが行われて、早速同日道路公団並びに建設省に対して第一回の陳情が行われた。翌、10日は上京中の各市町村長とも合流して再び道路公団、建設省、大蔵省に押しかけ陳情を繰り返したが、最終日の11日は東京プリンスホテルで架橋世話人会を開催、吉田、園田両代議士、寺本知事、島内各市町村長、県土木部長、本渡土木事務所長をはじめ矢島参議員、藤田代議士も出席、陳情結果の交換と今後の協力方について要請があって散会した。その結果、架橋は今年からいよいよ準備工事に入ることが確実になったが、道路公団では昭和36年度の新規事業は全国で九ヶ所を計画、初年度事業費は計10億円を要求している。はっきり予算化されるのは四月頃だろうと思われるが、諸計画の細部については何とも言えない。
しかし、このような明るい見通しがついたのも、寺本知事をはじめ吉田、園田両代議士、郡出身の全県議団、森国久町村会長や各市町村長、町村会事務局長等先輩各位の真剣な陳情の結果で、その長年にわたる労苦と努力に対して感激と敬意を表したい。」


  • [70]
  • 天草架橋実現への道 No.58

  • 投稿者:ごほんガゼ
  • 投稿日:2013年10月27日(日)16時41分19秒
  • 返信
 
天草架橋実現への道  No.58


昭和36年   その3

<愈々天草の総力戦の時が来た!!  大蔵省に二億円の予算要求  森国久副会長ら上京>

{ごほんガゼコメント}
昭和36年1月、予算要求の時期、天草架橋着工への最終章の年の幕が開いた。森国久副会長はその先頭に立ち、天草架橋世話人会の協力や地元天草町村議会等の応援電報を背に大蔵省に臨んだ。


(みくに新聞記事より昭和36年1月13日 )
<架橋予算獲得に集中  三十六年度二億円を目標>

待望久しき天草架橋調査も一応終了、愈々昭和36年度から本格的設計に着手する腹を決め、大蔵省に二億円の予算を要求している。このため横山本渡市長、森国久龍ケ岳町長、鶴田町村会事務局長等は去る1月7日熊本を出発上京したが、一行は9日午前9時から熊本県東京事務所で架橋実現世話人会を開いて道路公団企画室で得た成案に基づいて架橋による経済効果を大蔵省に説明した。また、天草郡町村会では「天草架橋の実現方是非共お願いす」の電文百通を大久保大蔵政務次官、園田、吉田両代議士、田付貞明等に打電して実現に務めているが、9日夜東京から次の電報が本社宛到着した。
「天草架橋二億円要求のところ大蔵省の査定難航し、一億円以上予算獲得のため強く折衝中、最後の切り札として池田首相に陳情、是非とも実現に努力し島民の期待に沿いたい。確定次第連絡する」
吉田重延、井上国男、小谷久爾夫、横山寛人、西本初記

  • [69]
  • 天草架橋実現への道 No.57

  • 投稿者:ごほんガゼ
  • 投稿日:2013年10月26日(土)00時23分45秒
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天草架橋実現への道  No.57

昭和36年  その2

<昭和36年、年頭にあたり森国久氏の決意と政治信条!>


皆様に紹介してきた、我が龍ケ岳町の初代町長森国久氏の政治信条と町民の暮らしへの思いを町民に向けて述べている挨拶を紹介します。
私はこの挨拶を読むたびに、もっと、私達が大きくなるまで、森国久氏が元気だったら、龍ケ岳町が、いや、天草がもっと言うと日本が変わっていただろうと想います。
森国久町長の熱い想いが伝わる挨拶文の一部です。



昭和36年1月1日(龍ヶ岳公民館報)

新春のことば
一万町民の皆様、明けましておめでとうございます。ここに新春を迎えるにあたりまして町民皆様の一人一人が健やかにして、お幸せでありますように心からお祈り申し上げます。
昭和29年龍ヶ岳村が誕生し、昭和34年4月1日町制が施行されましたが、この間7ヶ年にわたり引き続き不肖である私にご鞭撻とご協力を賜り町政執行の大任に当たらせていただきまして衷心から感激いたすところでございます。
政治の眼目とするところは、皆様の暮らしが『より豊かな』平穏にして『より安全な生活』を総ての皆様が『いついつまでも』楽しんでいただくことが理想であり、これが政治の姿だと深く信じてやみません。
この理想とこのおもいを「政治の心」として町政諸般の計画を図り、町民皆様方のご協力によりまして、文字通り実を結び発展龍ケ岳町の今日が実現いたそうとしています。顧みまするに本町の場合、基礎的なものとして道路、港湾、漁港、通信、文化等の立地条件はようやく地ならし的なものを終えて一応、形造られつつあります。
そこで、新年とともに、その上に立つ産業すなわち商工、水産、農林業或いは運送船業、並びに観光等の各般にわたって、実際地域に即応した産業振興五カ年計画を立案し、これを強力に推進したいと考えています。
町自体としての産業経済の伸長度は都会に比較すれば幾分格差こそあれ、町内皆様方の真摯な努力によりまして、現実において可成りの成長が認められているところでございます。
また、文化的な、或いは福祉、防貧対策におきましても具体的な産業振興五カ年計画とあいまって町自体の福祉方策を整備しかつ社会教育の充実をはかり、物心両面にわたり努力を傾けたい所存でございます。
かくして「より豊かな」「より倖せな」然も平穏にして安全、健康で明るい町づくりのために、懸命の努力をお誓い申し上げ、町民皆様のご協力、ご理解を衷心からお願いいたしまして平和と繁栄も年、昭和三十六年元旦のことばといたします。


  • [68]
  • 天草架橋実現への道 No.56

  • 投稿者:ごほんガゼ
  • 投稿日:2013年10月18日(金)08時49分48秒
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天草架橋実現への道  No.56

昭和36年  その1

"「観光」は「道路」"  天草道路公社計画

{ごほんガゼコメント}

次の「舗装道路10年計画」は、昭和36年のみくに新聞新年号に掲載された文章です。
森国久期成会副会長は天草架橋と道路網の整備が天草の観光にとって重要であり、観光すなわち道路であると言い切っている。既に今日の、天草観光立島を予言しています。
そのために、天草島内の道路舗装を急ぎ、「天草道路公社化」を提言し、道路の公社化によって道路整備を推進し、推進母体づくりを「天草市政」構想としてうたっている!
このアイデアには驚きです。また、10カ年計画を前倒しで5カ年で実行すると言い切るところにこそ、森氏が「有言実行の人」と言われた所以であり、確信に満ち溢れ、天草の発展への想いがほとばしっている。
50年前に架橋建設のみならず、その後を見据えていた政治家が他にいたでしょうか?他のどこにも見当りません!私にとってまた、感動と驚きの一文です。


「舗装道路10年計画」     (みくに新聞昭和36年新年号の記事より)

森    国久  龍ヶ岳町長

吉見先生(注1)お変わりありませんか。天草国立公園の産みの親である下村先生(注2)が逝かれて、満三ヶ年になります。又郷土天草が待望の国立公園に指定されてから早くも4年になります。真に感慨新たなものがあられましょう。
吉見先生、先生を始め天草全島民が寝ても覚めても、その実現を待っている『天草架橋』の実現も、時の問題となりました。当初、五百万円の調査費でしたが、本年中に尚五百万円を追加し、一切の調査を35年度中に終わろうとしています。
一方、橋に関連する道路も、34年度から着手し、37年度に完了する事となりました。郡市民の夢はここに、その緒についたと云えましょう。

吉見先生、天草の観光も遅まきながら、この『天草架橋』実現によって、大きくしかも、着実に天下の天草となることも遠くはないでしょう。しかも天草の『池の浦―本渡線』『富岡―崎津線』、帯取線、西高根線、蛤線等これらの環状線道路もようやく36年度で完成しようとしておりますが、『観光』すなわち『道路』の目標にはまだまだ遠い現状でございます。
吉見先生、私はこの道路の整備に、今後、天草島民は元より、県も国も重点的にその整備を図り、天草の36年度以降の重要課題とせねばならないと思います。
ここに島民の幹線道路をあげますと、『本渡―大浦線25キロ』『本渡―牛深線48キロ』『本渡―富岡線32キロ』『富岡―下田線13キロ』『下田―本渡線28キロ』『池の浦―三角線47キロ』『本渡―栖本経由合津線65キロ』計278キロで、これを舗装する工事費は17億5400万円の費用が必要であります。17億の予算は莫大ではございますが、地元市町村、県、国が一体となり、道路舗装10ヶ年計画を立てまして、これを完成するのはそう至難ではないと思います。天草郡市はひとつになり、各市町村が共にその運動を展開する事が急務ではないかと思います。
吉見先生、国立公園ー天草架橋―舗装道路が出来ますと、天草の観光が名実共に世界的となるでしょう。その時こそ天草は、観光、産業の大恩恵を受けるのでしょう。
私はここに道路舗装10ヶ年計画を、より早く計画するために、天草道路舗装公社と云う公社をつくり、10ヶ年計画を5ヶ年にして実現したいものであります。

森国久天草町村会長・天草架橋期成会副会長・離島振興協議会副会長


注1
吉見先生は、みくに社の社長、吉見教英氏。

天草には戦前より数多くの地域新聞があった。昭和30年代でも、天草新聞、週刊あまくさ、天草民報、天草毎日新聞、そして、みくに新聞があった。みくに新聞は週一回発行で天草の言論をリードした。当時の新聞は「天草アーカイブズ」で誰でも見ることができる。ごほんガゼもお世話になっています。
みくに新聞社長吉見教英氏は郡文化協会長としも活躍され、さまざまな天草関係の本を出版されている。「天草島 随筆集(1949年)」、「天草写真大観」などがある。
そのほか、「天草小唄」の製作にも深く関わりのある方のようです。「天草小唄」を歌った、牛深出身の天才テノール歌手『横田良一伝』(浜名志松編著作)も出版している。


注2
下村先生は下村海南氏。

氏の略歴(「紀の国の先人たち」より。一部加筆)

明治8年(1875)~昭和32年(1957)
和歌山市生まれ
多彩な分野で活躍した官僚、ジャーナリスト

明治8年(1875)、現在の和歌山市に生まれる。本名は宏。和歌山中学校(現:桐蔭高校)を経て、明治31年(1898)、東京帝国大学(現:東京大学)を卒業、逓信省(現:総務省)に入省する。明治35年(1902)欧州に留学し各国の郵便為替貯金制度を研究、帰国後は為替貯金局長として振替貯金制度や簡易生命保険事業の改革に取り組んだ。

大正4年(1915)に台湾総督府民政長官、同8年(1919)には総務長官に就任。台湾教育会の設立や地方自治制度の創始に尽力、また在任中に取り組んだ港湾整備、水力発電の設置、灌漑工事などの事業は、台湾発展の基礎となった。

大正10年(1921)朝日新聞社に入社、経営の近代化に大きな役割を果たし、昭和5年(1930)には副社長を務めた。昭和18年(1943)には日本放送協会(NHK)会長に就任した。

昭和20年(1945)4月、鈴木貫太郎内閣の国務大臣となり、情報局総裁に就任。終戦時のポツダム宣言受諾の玉音放送の実現に尽力した。同年8月15日正午に開始された放送は、日本放送協会の和田信賢放送員によるアナウンスから始まり、続いて下村が昭和天皇自らの勅語朗読である事を説明してから、天皇の声を録音したレコードが放送された。前日には、徹底抗戦を主張する一部軍人により、放送を妨害しようとして下村たちが監禁される事件が起きるなど、緊張した情勢が続く中、天皇から直接終戦を伝える玉音放送が無事に行われたことの意義は大きかった。

佐々木信綱門下の歌人としても知られ、戦後は拓殖大学の総長も務めた。官界、報道界など多彩な分野で能力を発揮した下村海南は、昭和32年(1957)に82歳で亡くなった。潮岬には下村の胸像と歌碑が建立されている。

国立公園審議会会長もつとめた。天草の国立公園編入や長崎の西海国立公園の生みの親でもある。

天草には少なくとも、2度来島されています。
その時、詠まれた下村先生の歌を二首。

切支丹の むかしかたりに 耳たつる 千人塚の 浜木綿の花

昭和31年
国立公園編入時に天草来島
殉教公園内千人塚後側に歌碑あり

このあたり 天草学林の あとといふ あら草にましる コスモスの花

昭和12年10月16日
本渡本戸馬場 丸尾ヶ丘に歌碑あり

※下村先生も、町長森国久氏の人脈の広さを伺い知る事が出来る一人であり、天草の恩人の一人である。


  • [67]
  • 天草架橋実現への道 No.55

  • 投稿者:ごほんガゼ
  • 投稿日:2013年10月11日(金)08時59分11秒
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天草架橋実現への道  No.55

昭和35年その10

<道路公団上村副総裁来島>

{ごほんガゼコメント}
昭和35年9月20日上村道路公団副総裁は来島し,森国久副会長等同行し、説明陳情にあたり2時間にわたる現地視察を終え、昭和36年度中着工の可能性を明言する!
上村副総裁は昭和37年7月の天草架橋の起工式には総裁として、高松宮殿下と共に再び天草を来島し出席した。
起工式当日、高松宮殿下と上村健太郎日本道路公団総裁は、故森国久龍ケ岳町長の奥様と長女を特別控室に招かれ、「架橋実現に一番一生懸命だったのに、この日に森国久さんの顔見られないなんて」と本当に残念がって語られた!と熊日新聞(平成18年12月28日)「架橋天草今昔」の記事で森国久氏の家族のコメントが紹介されている。
高松宮殿下は、昭和35年の熊本国体に来熊され、本渡に宿泊、その歓迎会でも森国久副会長は、現地案内接待役にあたる等親交があった。
天草と上村公団総裁、高松宮殿下の関係と人柄が偲ばれる話であり、東奔西走し、着工決定を確実なものとしながら、一年後の起工式をみる事なく死去した故森国久氏の多くの要人との厚い親交が伺える。


  <天草架橋調査事務所十月に設置 県建設委も近く追い込み陳情>
                        (みくに新聞記事から昭和35年8月26日)

県議会建設委員会は8月20日開かれたが、中央折衝を終えて帰った蓮田同委員長から天草架橋について「道路公団本社では今年度調査費570万円を決定、10月には現地調査事務所を設置する方針である」と報告があった。県土木部側でも架橋について残された課題は第一橋の地質調査と完成後の償還の見通し等の計画調査の補足部分だけで、いよいよ大蔵省に追い込み陳情の時期となったと説明、そこで建設委員会では九月下旬か十月はじめに陳情のため上京する事になった。なお道路公団の上村副総裁が9月14、5日頃現地視察のため来島の見込みである。


  <公団副総裁が架橋視察>         (みくに新聞記事から昭和35年9月9日)

日本道路公団の上村副総裁一行が9月20日天草架橋の現地視察を行なう。一行は19日鹿児島から急行霧島号で熊本着、監視船あそ号で架橋地点を視察、午後3時半の九商汽船で島原ヘ向かうが、架橋期成会では森慈秀、森国久、蓮田、横山の各副会長、長岡事務局長はじめ高橋振興連絡協議会長等が上村副総裁に架橋促進について陳情を行なう予定。


  <天草架橋の見通し  上村道路公団副総裁 現地の調査結果良好>
                           (みくに新聞記事から昭和35年9月23日)

天草架橋の現地を視察するため道路公団の上村副総裁と田中福岡支社長等は9月19日熊本着。20日三角港から県漁業監視船あそ号に乗船。海上から架橋地点を視察。
「36年度着工に間に合わせるため、問題になっている第一架橋地点の地質調査と設計を急ぎたい。天草架橋が来年から始まる政府の道路整備五カ年計画に入る事は間違いない。」と語り、地元側の関係当局者を喜ばせた。同乗した鶴田町村会事務局長は「船上で地図を見ながら第一架橋から第五架橋まで約2時間あまりにわたって視察されたが、問題になっている第一架橋地点の地質調査、橋の設計等も請負会社や海上保安庁等と打ち合せ中との事で近く決定される模様だった。予算もすでに35年度分に650万円計上してあるので、36年度中には着工が出来る段階になると思う。総工費22億円もかかる大事業なので、まだ色々な問題も出てくるかもしれないが、来年から始まる政府の道路整備五カ年計画にも天草架橋がはいる事を確約されたので今後各関係者となお一層の連携を図り、一日も早く「天草架橋」の実現を図りたい」と語った。


  <道路と架橋を強調した自治省官房長>     (みくに新聞記事から昭和35年11月18日)

自治省柴田官房長は県監視船「阿蘇」で11月15日来島、有明町、本渡市、苓北町、天草町などを視察、これには鈴木総務次長、宇野地方課長補佐、横山本渡市長、高橋牛深市長、森国久町村会長、鶴田事務局長等が同行した。
柴田官房長は有明町役場で次のように語った。
「天草には離島振興法が適用されているがこれに頼りすぎてはいけない。天草の発展策は第一に道路整備であり、天草架橋の実現である。これが行われないことには産業の振興はあり得ない」

写真は「熊日新聞」と「西日本新聞」


  • [66]
  • 天草架橋実現への道 No.54

  • 投稿者:ごほんガゼ
  • 投稿日:2013年10月11日(金)07時14分1秒
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天草架橋実現への道  No.54

昭和35年その9

< 天草架橋悲観は無用 森国久郡町村会長の帰来談>

(みくに新聞記事から昭和35年8月5日)


天草架橋促進陳情等のため天草から天草から各町村長等は7月中旬上京したが、このほど帰島した郡町村会長森国久氏は8月3日天草自治会館で記者団に対し次の様に語った。
    天草架橋について一部に悲観的な流説があるようだが、今度各方面を回ってみて決してそんなことはない。架橋実現への折衝は着々と進んでいる事を確信した。天草島民がいま悲観して投げやりな気持になることは最も危険であり、同時にあまり安心し過ぎて打つべき手を打たないと実現途中で挫折しかねない。県と地元一体となって強力な実現促進に向うべきである。その促進に当たっては第一架橋の調査がまだ終っていない点が"一つの壁"だったが、これも600万円の調査費が決まり今年中にボーリングや地質調査をやる段階にきたのでこの点大いに心強い。また、先に公団の藤森調査部長が来島した際、言及された工事事務所をの件はその後大蔵省が「調査も終わっていないのに工事事務所を設けるわけにはゆかない、時期尚早である。しかし、調査事務所なら設けてよい」という意向が示された。そこで公団としては「期成会や地元の方からどしどし調査事務所の陳情をしてほしい」という話だった。東京世話人会では園田、吉田両代議士をはじめ戸山代議士や田付貞明氏も関係各方面に強力な折衝を続けておられる。また、架橋事業費は24億円でなく20億円とか21億円とか少しでも安くしたいと本省の関係者は考えているようだ。道路公団本社の佐藤理事等の活躍によれば、通行料を30数年払わせるのは関係者として非常に辛いから出来るだけ建設省の公共道路事業分を増やして貰うようにしたらどうかという意向が強く、この建設省の公共事業範囲と公団の事業範囲のどの辺に線を引くのが妥当かという事が問題である。また、先に発表された県知事の帰来談で架橋実現に対して悲観説をとる人がいるようだが、知事としては就任以来1年1ヶ月、この間さまざまな問題が山積みしていて、実のところ今まで架橋問題に真剣に取り組む余裕がなかった。今度はじめて架橋問題で本省と折衝し「こりゃ油断できぬぞ」とフンドシを締め直したというところであり、知事が今後懸命に架橋実現のため頑張ってくれることは間違いないものと信じている。










  • [65]
  • 天草架橋実現への道 No.53

  • 投稿者:ごほんガゼ
  • 投稿日:2013年10月10日(木)07時26分8秒
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天草架橋実現への道  No.53


昭和35年その8

<天草架橋工事事務所の設置を!!!>


(みくに新聞記事より昭和35年7月1日 )
<架橋期成会総会開催 工事事務所設置を本省に要望 >

天草架橋期成会総会は6月24日午後2時過ぎから熊本自治会館で開かれたが、当日は会長(寺本知事)副会長の蓮田県議、森国久龍ケ岳町長等が出席、まず寺本知事から「天草架橋問題も非常に進展しあと一息となった。若戸大橋が終るとその技術陣を移せるから一刻も早く工事事務所を設置するよう働きかけたい。」
続いて、西本松島町長から「本年度着工するか、これまで期成会で600万円余を出しているが、これからは県の仕事としてとりあげて貰いたい。」と要望があり、坂田県土木部長は「6月8日部長会議に出た際、藤森公園計画部長より工事事務所設置について大蔵省が納得せず、行き悩みの状態であるとの話を聞いたので、大蔵省に早く働きかける必要があり、この点米田参議、大久保代議士等に話しておいた。また、港湾調査で高さ、航路の幅等検討、7月14日までには県としての決定の線を出したい。」と説明。
寺本知事から「7月初旬上京、天草架橋問題について中央折衝を行う」と説明があった。










  • [64]
  • 天草架橋実現への道 No.52

  • 投稿者:ごほんガゼ
  • 投稿日:2013年10月 9日(水)18時45分35秒
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天草架橋実現への道  No.52


昭和35年その7
<橋の高さは?  橋脚の広さは?>

{ごほんガゼコメント}
この時大きな問題が持ち上がっていた。
三角町長から「最近、三角港に一万トンを超える大型船が入港しているが、架橋による支障はないか」と質問があった。
高さ、橋脚の広さによっては、航行出来なくなる。
かといって、橋を高くすると工費が嵩む。
架橋実現には三角町の協力が欠かせない為、綿密な協議が必要だった。


(みくに新聞記事より昭和35年5月6日)
"天草架橋の調査進む 既に認可申請書を提出"

天草架橋の調査のため4月27日道路公団本社総裁室の田原調査役、同支社の有田調査課長、平松設計課長等一行が来島。県土木事務所の「有明丸」で架橋予定地を視察、同船中で次のように語った。「架橋の技術的な面をつぶさに検討するつもりでやってきた。ボーリングの予算その他もあるので調査費570万円ではとても足らないので、その増額が望まれる。」
また続いて30日建設省の田辺高速道路第一課長一行が来島、同じく架橋予定地を視察した。



(みくに新聞記事より昭和35年5月20日)
≪天草架橋協議会≫

天草架橋の第一架橋の航路幅、橋の高さ等を協議する会議が5月27日熊本自治会館で開かれる。当日は門司海運局、第七管区海上保安庁、有明海水先協会等や熊本県土木部天草架橋期成会事務局等の代表が集まり第一架橋の航路幅と橋の高さについて話しあうことになっている。


(みくに新聞記事より昭和35年6月3日号)
<天草架橋の航路幅検討
熊本で海運関係者と打ち合せ>

天草架橋協議会は5月二十七日午後二時半から熊本市の県自治会館で開かれ、第一架橋の高さ、航路幅等について打合を行った。当日は第七管区海上保安本部星野警備救難部長、三角海上保安部幸徳保安官、九州海運局三角支局吉星次長、水先案内人池永実重氏、県側から吉田土木部長、田中河港課長、村田港湾係長、期成会側から森慈秀、森国久両副会長、鶴田事務局次長等が出席、田中県河港課長の経過説明につづいて架橋の高さ、航路幅等の問題について話し合った。第一架橋の高さについては、最近、若戸橋ができたからこの若戸橋に準じてよいが、若戸と天草では船の通行量が違うので四十メートルが適当、航路幅は二百メートルが適当と海運側の要望があったが、六月三日頃県田中河港課長、期成会森慈秀副会長、鶴田事務局次長等が第四港湾建設局側の意見をきいた上で、そのまま上京、運輸省の見解をただし、更に工事費その他の面について検討を加えることになった。










  • [63]
  • 天草架橋実現への道 No.51

  • 投稿者:ごほんガゼ
  • 投稿日:2013年10月 9日(水)18時38分15秒
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天草架橋実現への道  No.51

昭和35年その6

<天草架橋実現世話人会結成>
{ごほんガゼコメント}

全国離島振興協議会副会長として、たびたび上京した森国久龍ケ岳町長は天草架橋実現のためにも短い時間の合間に奔走し、天草架橋建設が今一歩というところ、更に確実なものにする為、在京の天草関係者、熊本県選出の国会議員やこれまでに陳情した建設大臣経験者等を結集し「天草架橋実現世話人会」を発足させた。

(みくに新聞記事から昭和35年4月8日)

< 離島補助率引上げは有望  森国久全国離島振興協議会副会長の帰任談>

全国離島振興協議会副会長、天草郡町村会長森国久氏は3月23日上京、全国離島振興協議会理事会に出席、31日帰島し次のように語った。
「離島振興法の一部改正案について自民党の七役会議でも了承した。同法改正は補助率の引上げ要望で道路改良三分の2を四分の3に改訂、また、天草架橋の第二回世話人会を4月8日、東京都日比谷の松本桜で開き早期着工の態勢を整えることになった。



(みくに新聞記事より 昭和35年4月22日)
<天草架橋実現世話人会発足 村上建設相も八月頃視察に来島>

天草架橋実現世話人会が昭和35年4月8日発足した。同会は8日午前11時から開かれたが馬場前建設大臣、石坂、内村、谷口、桜井、村田各参議や園田、吉田代議士に松野労相、鶴田東京天草郷友会長、道路公団今沢監理官、伊藤九州地建前局長、吉田県土木部長、井手県東京事務所長、蓮田、西岡県議、森国久龍ケ岳町長、森大矢野町長、田付貞明氏、鶴田期成会事務局次長が出席。
まず、井出世話人会事務局長の開会の辞、森慈秀氏の経過報告に次ぎ司会役の園田代議士の挨拶、出席者紹介、県側を代表して吉田土木部長、吉海道路課長、建設省側から今沢監理官、公団側から比留間技術課長及び馬場前建設大臣、伊藤前地建局長、内村参議、米田参議、石坂代議士の挨拶、蓮田県議、鶴田郷友会長の陳情があり吉田代議士の閉会の辞で閉会した。出席した関係各氏の説明によると、「道路は34年度着工し37年度に公共道路は完成する計画だが、今年は事業費3090万円が予定されている。また、道路公団では31年度から33年度までにすでに480万円、前年度は180万円の調査費を使っており、今年度570万円あれば大体調査が終わるが、今後工事事務所を三角に設置せねばならず、今その準備を進めている。取り付け道路予算は道路整備五カ年計画前期が37年度に終わるが総予算一兆円のうち有料道路には二千億円程度しか廻らぬ模様なので、天草架橋の場合は同計画後期(38年以降五カ年間)に2、3年喰い込み40年位までかかるのではないか。ただ、五カ年計画の改訂が行われる見込みもあり、その際予算が増額されればもっと早期に完成できる。また、架橋工事は調査と平行して着工できるので、35年度予算を獲得すれば36年度をまたずに工事に取りかかれる。総工事費は22億円で橋梁費13億8千6百万円、道路費3億6百万円となっており、今年8、9月頃認可申請書を建設省に提出するが、村上建設大臣は今年八月国会終了後天草ヘ現地視察に来島すると確約した。」
なお、世話人会は4月8日発足、事務局を熊本県東京事務所に設置した。










  • [62]
  • 天草架橋実現への道 No.50

  • 投稿者:ごほんガゼ
  • 投稿日:2013年10月 9日(水)18時27分56秒
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天草架橋実現への道  No.50

昭和35年その5
<龍ケ岳町の建設は進む>

{ごほんガゼコメント}
龍ケ岳広報の「建設は進む」と題した三回シリーズの記事を読むと、昭和30年代の天草は貧しかったけど明日への希望で満ち溢れている。
少し見ないと町の様子が一変する、そんな勢いが有った時代だった。

(龍ケ岳広報昭和35年4月1日)
港湾に道路に産業に
建設は進む①

道路が地域産業体の動脈であれば、交通機関は脈打つ血液、特に町にとって港湾は生々発展の途をたどるたくましい息吹ともいえよう。建設につぐ建設は天草島の要衝として龍ケ岳町が大きくクローズアップされ様としている。地域住民の叡智と不断の努力がいばらの道を切り開いたのである。町内の皆さん!!個々一人の力は弱い。しかし、町民の力を束ねて大和の道を歩むところ光明は正に、寸尺、天に向かって花を開かんとする壮心と郷土の再建にたゆまぬ野心を燃やそう。

(龍ケ岳広報昭和35年5月1日)
建設は進む②

下貫から大作山へ貫通し棚底街道に至る下貫林道は幅員3㍍60、えんえんとして6000㍍に及ぶ大工事であるが、林道といっても悠々とバス、トラックも行き交うことの出来るいわば観光道路でもある。現在下貫基点から1383㍍、字椿内まで貫通し、あとは37年迄に完成の予定だという。その間コンクリート橋が四ヶ所、また基点1100㍍に架けられてある猪野尾橋は工費37万円をもって架けられたものでまことに立派なもの。
附近老松巨杉等ウッソウとして繁茂し、そうそうと流れる真清水のせせらぎに鶯の声もきかれ、ここが天草かと思う位山岳重畳する別天地である。この渓谷を切り拓き、厖大なる森林資源を開発し、世紀の観光バスが颯爽として疾るのも目捷に迫っている。建設の譜はやがてまた開始される継続工事で、龍ケ岳山嶺を越えて高らかに謳われよう。

(龍ケ岳広報昭和35年6月1日)
建設は進む③

町では既報の通り昭和35年で池の浦、本渡線を貫通させようと、着々準備を進めているが、松ケ鼻岬を大きく迂回して難関を打開した新設県道はついに大道東に達した。これを池の浦越と直結する中継工事として中園川陸橋が近くお目見えする。やがて開始される池の浦本渡線工事は第一期工事として中学校裏の300㍍、第二期分として池の浦越1600㍍の幅員拡張工事、第三期はいよいよ本格的に赤崎から浦までの2840㍍の大工事が続くことになる。延4800㍍の池の浦本渡線に世紀のバスが初夏の風をきって疾るのももうすぐ目の前にある。











  • [61]
  • 天草架橋実現への道 No.49

  • 投稿者:ごほんガゼ
  • 投稿日:2013年10月 7日(月)12時14分51秒
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天草架橋実現への道  No.49

昭和35年その4

<龍ケ岳~本渡バス開通龍ケ岳町の道路開発報告>

{ごほんガゼコメント}
昭和35年、NHKが道路公団が天草架橋の建設計画を発表したその年、着々と天草循環道路が各地で切り開かれていた。
我が龍ケ岳町でもやっと陸路での本渡行のバスが開通した。
森国久龍ケ岳町長は「道路は産業開発の動脈、バスの乗り入れは血液の注入である」と道路交通への思いを高らかに語っている。

<バス運行許可  本渡ー龍ケ岳>

(龍ケ岳広報昭和35年3月1日)
本渡~龍ケ岳線バス運行が運輸省から2月18日許可になったと入電があった。
これで待望久しくした町内バス乗入れが町内の受け入れ態勢さえ整えばいよいよ実現するわけです。バスの通らない町から一挙にして、いわば世紀のバスが高戸を終点として運行されるが、町を交通禍から護るために、交通道徳の確立に格段の関心が払われている。

(龍ケ岳広報昭和35年3月1日)
森国久町長インタビュー

内閣離島振興対策審議会委員として上京した森国久町長が2月18日帰庁した。
当面する町関係の重要建設工事について、次のように語った。
1、池の浦~本渡線、池の浦~三角線の県道については昭和35年度中に完工する。

2、高戸全域に簡易水道を施設
35年度事業として高戸全域に亘り着工し、水量、衛生、家庭の飲料水問題を一挙に解決したい。

3、下貫林道継続事業としてあと二カ年にして下貫~二間戸越~大作山線を貫通し、本町産業資源開発を実現する。

赤字財政、再建団体を脱した本町初の独自予算案が町民の関心を集めている。



(龍ケ岳広報昭和35年4月1日)

<龍ケ岳町にバス開通
本渡ー高戸   約2時間10分>

<脈打つ産業動脈の鼓動>

町になった一年の年輪を力強く刻みこんだこの日、4月1日、重ねての喜びに町は沸きかえった。待望久しくしたバス乗入れがついに実現したのである。この喜びあふれる龍ケ岳町の山河は春雨に洗われて緑の色も一際鮮やかで、瀬戸一帯の街道に張り巡らされた三色旗と大国旗を掲げた紅白のアーチに花輪、それに戸毎の日章旗は春風にはためき慶祝の気は嫌が上にも盛り上がった。町民の歓呼とどよめきのうちに、待つ程に試乗する高戸保育園児を乗せた開通第一号車が五彩のテープを切って発進した。時に11時35分、まさに記念すべき瞬間であった。

バス開通祝賀会で、森町長は「道路は産業開発の動脈、バスの乗り入れは血液の注入」だと「生々発展の途をたどる我が龍ケ岳町は今日のこの喜びの日をむかえて一層の飛躍が期待される。実に道路こそは産業文化開発の大動脈でありバスをはじめ機動車の運行は、この動脈に血液が還流することでありこんな目出度いことはない」と語り、「本年度中に池の浦本渡線が予定され、田浦町と連携し龍ケ岳、田浦海上連絡航路も目論まれているので名実ともに上天草交通の扇の要として希望が託されている」と喜びを語った。
また、産交を代表して産交本渡営業所坂井次長は「本渡龍ケ岳線バス運行が正式に運輸省から許可になったのは2月18日であった。諸般の都合で遅れたのはまことに相すみません。産交としても社を挙げて龍ケ岳町産業交通の進展に協力したいのでよろしく」と述べ午後一時散会した。
なお町内における停留所として
楠川      坂川武雄商店前
瀬戸      杉基幸商店前
東風留   西岡周一鍛冶屋前
下貫      鬼塚澄人商店前

本渡行は一日4便だった。










  • [60]
  • 天草架橋実現への道No.48

  • 投稿者:ごほんガゼ
  • 投稿日:2013年10月 3日(木)07時27分7秒
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天草架橋実現への道No.48


昭和35年その3

訂正  前回はNo.47でした。No.46が重複しました。



<道路公団 天草連絡道路計画発表>

{ごほんガゼコメント}
昭和35年1月26日、NHKのニュースで「道路公団は天草連絡道路を計画、4月から実施設計作成にかかる。三角から大矢野に架ける一号橋は五百十メートル、五つの橋で結ぶ計画」と放送した。

<天草架橋は三十九年度完成、道路公団が全国の事業計画発表>
(みくに新聞の記事より)

日本道路公団ではこのほど神戸~明石道路等で十本の観光産業道路の新設計画を発表した。その中には九州横断道路及び天草連絡道路(天草架橋)が含まれており、いよいよ天草架橋の昭和36年着工はほぼ確実視されるに至った。
同公団発表によると天草連絡道路は三角町と松島町とを五つの橋で連絡、天草開発と観光に役立てようというもので車道幅6.5㍍、総延長8356㍍のアスファルト道路、うち橋が1302㍍、150㍍のトンネルである。総事業費は22億円でこの方は37年に終る道路整備費五カ年計画からはみ出すが36年度着工、39年度完成を予定している。また、天草架橋期成会でも36年度着工はほぼ確実とみているが、同事務局ではその見通しの根拠についてつぎのような理由を挙げている。
△33年4月  日本道路公団岸総裁一行が来島した際「私は天草架橋着工の見込みがあるから来たのだ。見込みがないところには初めから出て来ない」と明言した。
△つづいて同年同月24日根本建設大臣が園田代議士の案内で現地視察を行った際、大矢野町、松島町で36年度着工の約束、道路整備五カ年計画に予算を計上してあると説明
△34年10月20日村上建設大臣に陳情した際、九州横断道路と関連して着工したいと話があり、九州横断道路は既に決定したので当然天草架橋も出来ることになる。
△同年11月30日公団支社より本社に対する説明会で29年間に償還可能の報告があった
△35年前半で調査を完了し、遅くとも9月までに認可申請書が提出されるものと考えられる。なお35年度以降の年度別事業予算の要求も行われているそうだ
△大矢野町地内建設省の公共事業として施行の道路費37年度までに9900万円を計画してあり、すでに34年度は純然たる架橋道路に600万円を以って実施中、35年度には3000万円施行の予定
△中央で架橋世話人会が結成される事も36年度着工への大きな収穫である
△県土木部では1964年の東京オリンピックまでに完成させたいと強く要望している
△人口25万の足の解決という点より公共性が極めて強い
△32年3月19日熊本県議会で議員提案により天草架橋事業費償還の補償協議があり、着工できる
なお、架橋が完成しその効果が安定すると見られる年を昭和40年度と仮定し、その年の経済効果を推定すれば輸送費の節減等による効果6億8千万円、生産増による効果8億4千万円、合計年間15億2千万に達する公共的効果ありと推定されており、天草架橋の実現こそは天草の歴史に一大エポックを画するものとして各方面の期待を集めている。
(みくに昭和35年2月5日)



  • [59]
  • 天草架橋実現への道No.46

  • 投稿者:ごほんガゼ
  • 投稿日:2013年10月 2日(水)07時24分18秒
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天草架橋実現への道No.46


昭和35年その2


(みくに昭和35年1月29日)
<天草架橋現地調査 >

天草架橋計画は現在道路公団福岡支社の手で認可申請書提出に伴う全体計画書の作成が行われているが、天草架橋調査のため1月28日道路公団東京本社の野口調査課長が福岡支社の有田調査課長と共に来島する。一行は28日午後現地に着き架橋地点を現地踏査の後下田一泊、翌日霧島へ向かう予定。




<森国久龍ケ岳町長、離島振興対策審議会委員再任4期目>

2月1日付で龍ケ岳町長森国久氏は離島振興対策審議会の委員(全国離島市町村長の代表)に内閣総理大臣から重ねて任命された。
離島振興対策審議会は総理大臣の諮問機関であって、離島の振興、島民の生活の安定及び福祉の向上を図る等、全国の離島振興に関する重要事項を調査、審議し、それを総理大臣に対して意見を申し出るために設置されているものである。
なお、委員の任期は二年であって、今回の任命で森町長は四期を勤めることになった。(龍ケ岳広報昭和35年3月1日)

{ごほんガゼコメント}
森国久氏は今回の離島対策審議委員任命が最後となる。
昭和28年、離島の後進性を排除する目的で離島振興法が制定され、森氏はこの法律の成立に大いに貢献し、天草を第一回の審議会での指定に尽力した。
架橋の実現は離島からの離脱であり、究極の離島の後進性から脱却するという離島振興法の趣旨に叶うものである。
架橋開通までに、島内のインフラ整備が不可欠だった。その調整のために森国久龍ケ岳町長の手腕が期待されていた。


  • [58]
  • 天草架橋実現への道 No.46

  • 投稿者:ごほんガゼ
  • 投稿日:2013年 9月29日(日)06時28分49秒
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天草架橋実現への道No.46


昭和35年その1

{ごほんガゼコメント}

五和町の『天草アーカイブズ』で「天草架橋実現運動」を調べる過程で、多くの森国久氏の発言資料、陳情書等を目にし、わが郷里にこれ程先見性のある政治家がいたのかと感動しました。なかでも、この「交通第一」の発言は、氏が最も力を注ぎ、架橋開通後の天草が目指すべき方向性を指し示していたものの一部です。
「天草に橋を」は、戦前から語られているらしいですが、どこにも、架橋開通後の明確な構想は見当たりません。
森国久天草架橋期成会副会長の発言は、常に具体的で、力強いリーダーシップを発揮し、実践者として確信に満ちております。
今から50年以上前に、既に、「天草市制」を目指し、着々とその現実化に向けて動き提言しています。「天草はひとつ、島内を道路網で結ぶ。何処からでも本渡に2時間以内で!」と。
本土との連絡の手段も何種類も計画し、中央との交渉、陳情もなされています。
この計画は、八代~天草架橋、島原~天草架橋、長島~天草架橋を想像させます。
天草架橋を動脈として、九州各地に静脈を張り巡らし、本土との直結を考えていた!
まさに、天草は、「交通第一」であり、天草架橋は、「交通第一」だと言う事です。

『天草はひとつ』はいまだ実現していません。
天草架橋開通後に『天草特例』市が出来ていればどうだったでしょうか?
今は、亡き  森国久氏が、開通まで生きておられたらどうだったでしょう?
架橋開通後の天草の今を見て、何と発言されるでしょう?
「なんばしとっとか」!でしょうか?

<昭和35年みくに新春挨拶     交通第一>

森  国久龍ヶ岳町長(架橋期成会副会長)

天草郡市民の皆様新年おめでとうございます。
ここに一九六〇年の新春を迎え将来の天草発展の構想の一端を述べてみますと先ず何といいましても天草発展の基礎をなすものは天草架橋であると思います。架橋が三十六年度に着工し三十八年度に完成した暁には天草各地から中心の本渡に全部二時間で集まれます。
また道路網(池の浦―本渡線、帯取線、富岡―崎津港線、蛤線等)は三七年度に全部開通します。
天草に渡る本土の足も天草架橋、口ノ津―鬼池線、富岡―茂木線、牛深―長島線、龍ヶ岳―田ノ浦線、八代―姫戸線等にフェリーボートが通り、鹿児島、熊本、長崎各地との交通は大変便利になります。
天草は正に一市となるわけであり、二十四万の人口を有する天草市の誕生も決して夢ではありますまい。産業も文化も一体にならぬと天草の発展は期せられず、各市町村一致して農業、文化、観光の発展に邁進せねばなりません。天草の経済は将来北九州の工業地帯と直結し大矢野の花卉、各地の抑制栽培農業等は直接北九州へ出荷され、牛深の魚も熊本発の一番機で北九州へ移出され、鮮度が高ければそれだけ価格も上昇します。
結論として天草は一市であり、今後天草島民一丸となって島民所得の向上を目指すべきだと思います。










  • [57]
  • (無題)

  • 投稿者:ごほんガゼ
  • 投稿日:2013年 9月22日(日)10時28分42秒
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天草架橋実現への道No.45

昭和34年その7

{ごほんガゼコメント}
昭和34年は天草架橋の  全体計画書を道路公団に提出し、いよいよ架橋の実現が近づいてきた。一方、東京では「東京天草郷友会」からも参加して「天草架橋世話人会」を結成し、天草架橋の早期実現を目指した。
第一号架橋建設予定地点では三角港への一万トン級の大型船が航行が可能となる橋の高さ、幅について調整が続いていた。


(みくに 昭和34年12月18日)
架橋期成会役員会
天草架橋期成会役員会は昭和34年12月24日、熊本市内の県自治会館で開かれ経過報告、天草架橋の東京世話人会結成についての打ち合せ会が行われる。
また、同会閉会後、架橋実現後の天草の観光、道路、産業等の実態調査について天草出身の県議団や県の関係部課長と懇談する予定。


天草架橋協議会

道路公団福岡支社有田調査課長、県土木部荒井改良係長、同土木部山下技師、蓮田県議会議員、鶴田天草架橋期成会事務局次長、窪田大矢野町助役等が12月12日三角町のさつまや別館で天草架橋に関する協議会を開いた。その結果、第一橋の高さ、航路幅等について海上保安部や海運局からいろいろ要望があるが公団福岡支社の高さ39メーター、航路幅150メーターは適当であるので、明年早々同案について運輸省第四港湾建設局、海運局、海上保安部等関係方面の了解を得ることになり、その後、第一橋のボーリングを行なう方針である。
また、架橋東京世話人会は24日熊本市で開かれる架橋期成会役員会の席上寺本知事と同結成についての具体案を協議する事となった。





  • [56]
  • 天草架橋実現への道No.44

  • 投稿者:ごほんガゼ
  • 投稿日:2013年 9月22日(日)10時23分37秒
  • 返信
 
天草架橋実現への道No.44


昭和34年その6


( みくに昭和34年11月27日)
<天草架橋問題大詰 近くパンフレット作製>

天草架橋期成会では11月21日県観光課城本技師に委嘱して天草架橋の現地写真数十枚を撮影、これをアルバム4冊に収め、公団福岡支社で作成した架橋全体計画書を携行してこのほど、森慈秀、森国久、値賀の三副会長、鶴田事務局次長が上京、25日道路公団本社で公団総裁等首脳部と架橋説明会を開催した。続いて、29日期成会副会長、事務局次長等が全体計画書を基に道路公団側と架橋に関する協議会を開き、更に30日か来月1日に建設省の担当官と協議会を開催、全体計画が公団本社で承認を受ければ来春早々正式の架橋認可申請書を提出する。
また、天草架橋期成会では天草郡市民の架橋熱を盛り上げるため天草架橋に関する啓蒙パンフレットを来年一月頃発行する。



(みくに 昭和34年12月11日)

<天草架橋最後の追込み  公団本社に全体計画書を提出>

天草架橋期成会の森国久副会長、窪田大矢野町助役、鶴田期成会事務局次長等一行は11月28日上京、30日東京日比谷の松本楼別館で道路公団本社、同福岡支社、熊本県庁、天草架橋期成会の四者代表が集まって架橋計画説明会を開いた。
当日は園田、吉田代議士はじめ公団本社から野口調査課長、高橋経済課長、織田営業課長、早川調査役、江藤調査官、支社から有田調査課長、真田調査役、県から坂田土木部長、荒井道路改良係長、肥沼県東京事務所員等、期成会から森国久副会長、窪田、鶴田の各氏と岡部本渡助役が出席した。
主な会議内容は次の通り
【有田調査課長】
今まで部門別に本社に報告ずみであるが、この際11月20日提出した全体計画書に則り、総括的な説明を行ないたい。まず調査開始は昭和31年5月からで31年度に比較調査、32年度以降は経済、技術調査を行なって来た。今後は来春から実施調査にかかり認可申請書を提出する段階にまで漕ぎ着けた。鋼材の価格を若戸大橋の単価で換算すると天草架橋の総工費は22億円という事になる。今後の課題は第一橋のボーリングと幅の高さの決定を急ぐ事で、一応橋の高さは39メーター、幅最大60メーターという案を出している。完成後の一日の交通量は600台で30年未満で償還し得る見込みだ。
第一橋は5カ年で完成する計画である。

【真田調査役】
天草の地理的条件から考え合わせて見ても九州では最も有意義な架橋計画と思う。天草~三角間の人の動きは年間70万人であるが。架橋は総工費22億円でうち5億円は自己資金、あとの17億円は借入金であるが、29カ年位で償還できるようだ。

【荒井県改良係長】
県から架橋調査費として既に600万円出している。県の事業としては天草島内の幹線道路である本渡~富岡、本渡~牛深、本渡~大浦線等は勿論、富岡~崎津港線、久玉線、龍ケ岳東海岸線等のすべてが昭和37年度までに出来上がり、大矢野地内の公共事業道路も昭和37年度で完成する。

【森国久期成会副会長】
地元では橋ができたら直ぐ間に合うよう架橋着工を前提とした離島事業、産業、観光事業等の実態調査をやっている。


【早川本社調査役】
観光産業面に大きな役割を果たすものであるから私個人としては有望だと思う。


【高橋本社経済課長】
橋の収入で諸費をまかなわねばならないのだから今後の調査が重要視されてくるので地元の全面協力を切望したい。


<東京で天草架橋世話人会を結成>

なお、天草架橋期成会世話人会を結成する事を申し合わせたが、世話人会は園田直、吉田重延両代議士はじめ天草出身有力者、松野鶴平氏はじめ県選出衆参両議員等を幹事として構成する予定であり、期成会事務局では寺本県知事にこの案を相談した上、来年一月ごろ東京で発会式を行なう見込である。



  • [55]
  • 天草架橋実現への道No.43

  • 投稿者:ごほんガゼ
  • 投稿日:2013年 9月22日(日)10時18分22秒
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天草架橋実現への道No.43

昭和34年その5

<台風災害を天草復興と架橋実現へ転嫁>
この年は台風による災害の多い年だった。あの伊勢湾台風もこの年。禍いを福に転嫁するため、復旧だけでなく、架橋の早期実現を陳情した。

昭和34年9月14日
台風14号で被災

昭和34年9月26日
伊勢湾台風襲来

(みくに昭和34年10月2日)
<災害、架橋陳情に大挙上京 天草振興協議会総会で決定>

天草振興連絡協議会臨時総会は9月28日天草自治会館で開かれ、まず14号台風災害復旧対策については第一陣として、30日上京する県議会災害復旧対策特別委員会(会長田代由紀男氏)と共に森国久会長が上京し、関係各方面に陳情し更に10月中旬災害対策と天草架橋促進のため全市町村長が揃って上京する事となり、一行帰任後天草架橋総決起大会を開催するか否かを決める事になった。


( みくに昭和34年10月16日 )
<天草各市町村から大挙して上京 台風災害復旧、架橋陳情>

天草の14号台風災害地への復旧対策や天草架橋早期着工について陳情する







  • [54]
  • 天草架橋実現への道No.42

  • 投稿者:ごほんガゼ
  • 投稿日:2013年 9月22日(日)10時12分25秒
  • 返信
 
天草架橋実現への道No.42


昭和34年その4


(みくに 昭和34年9月4日)
<天草架橋促進に協力を確約 参議院建設委一行の現地視察 前熊本県知事桜井三郎参議院議員も>

「参議院建設委員会の松野孝一、桜井三郎、内村清次氏等一行は8月31日午後、天草架橋の第一架橋地点を視察したが、視察に先立ち三角町で『架橋の早期実現のため全面的な協力を惜しまない』と語った。一行は前記委員のほか土ノ上九州地建局長、田中道路公団福岡支社長、鷲崎県土木部長、吉海県道路課長等十五人で同日午後4時半頃三角に着いたが、天草架橋期成会から値賀本渡市長、森国久郡町村会長、森慈秀大矢野町長、蓮田県議の各副会長、長岡県天草事務所長、鶴田町村会事務局長はじめ大矢野町の議会、婦人会青年団代表等が三角町さつま屋別館で架橋促進陳情を行った。この陳情に対し建設委員会を代表して松野委員が、道路公団から福田中南支社長が次のような挨拶を行った。
【松野委員長】
初め、北九州視察を命じられたが、我々は更に南九州まで足を伸ばすことになり球磨川、九州横断道路、天草架橋を見て廻っている。架橋は根本元大臣が36年度の着工を言明しており自分たちもこの確約通りおこなわれるものと信じているから、地元民の要望に応えるよう着工促進したい。

【田中公団支社長】
早ければ35年度後半着工の準備をすすめていたが、35年度には未だ相当の調査が残されいる。この調査費四百五十万円の獲得については地元の熱意が大いにモノを言うのでぜひ架橋熱を盛り上げていただきたい。調査後設計書を作製。これが、35年いっぱいかかるので結局着工は36年度ということになろうが大矢野地内の連絡道路に建設省が六百万円出したことは同省がすでに架橋工事の手形を発行したものとみてよいのではなかろうか。

なお、天草架橋期成会では9月7日架橋の高さ、航路幅等の打ち合わせのため福岡で上野第四港湾局長等関係者と協議を行うが、期成会側から副会長四名、山田県議(三角町選出)鶴田町村会事務局長、熊本県側から鷲崎土木部長、吉海道路田課長等が出席の予定である。










  • [53]
  • 天草架橋実現への道No.41

  • 投稿者:ごほんガゼ
  • 投稿日:2013年 9月16日(月)15時59分6秒
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天草架橋実現への道No.41


昭和34年その3

<架橋調査、視察が頻繁に、昭和36年度工事着工の声高まる>

{ごほんガゼコメント}
昭和34年は架橋運動がますます活発になった。一方、調査、視察も頻繁になり、昭和36年度の工事着工を押す声が高まった。


(みくに昭和34年5月15日)
<道路公団が天草架橋視察>
道路公団福岡支社の伊藤工事部長、有田調査課長一行は5月7日天草架橋設計書に基づく路線調査のため来島、架橋現地をくまなく調査、更に架橋の背後地や経済効果を再検討するため翌15日は天草町高浜方面まで足を伸ばし、石炭陶土等天草の産業資源を実地調査したが、「現在工事施工中の若戸大橋の技術者を工事完了前に早目に天草架橋工事に廻し、一日も早く天草架橋の着工に乗り出して貰いたい」という地元代表からの陳情にたいして、「若戸大橋工事は昭和39年度位までかかるだろうが、勿論最後まで技術陣を残す必要はない。今後よく調整した上で出来るだけ地元の意向に沿うよう善処したい。これから、上京して道路公団本社と打ち合わせを行なうので、19日の天草架橋期成会までには着工時期その他について本社の見通しを報告できると思う」



(みくに 昭和34年5月29日)
<来年度後半期に着工予定 天草架橋期成会総会 >

「天草架橋期成会総会は5月19日熊本市内天草自治会館で会長の寺本知事、副会長の値賀本渡市長、森国久龍ケ岳町長等約40人が集まって開き、今年度の予算及び事業計画等について協議した。なお、当日道路公団福岡支社有田調査課長は天草架橋の見通しについて次のように語った。
「六月中頃から第一架橋地点の港湾調査に着手する。これは地質調査はもとより、1万トン級の船も通れるよう、マストの高さや航路幅に基づき橋脚の高さや幅を決めるためのものだ。これらの調査は今年度内に一応の終了予定であり、35年度には建設、運輸両省の着工認可申請を行ない、年度途中から工事に着手できる準備万端ととのえていくつもりだ。」



(みくに 昭和34年8月7日)
<天草架橋は36年度に着工、道路公団比留間技術課長談>

道路公団本社比留間技術課長は7月29日、架橋現地調査のため来島した。「有明丸」で架橋現地を具に視察、同日下田に一泊、翌30日は鬼池から口之津に向かったが、比留間技術課長は「天草架橋の昭和36年度着工は絶対確実と思う」と前置きして次のように語った。
『建設省では天草架橋の大矢野町の公共道路予算9900万円を既に決定。これで昭和34年度から37年度迄に町内の公共道路の建設を行う事になっており、あと6000万円で松島町等の公共道路を完成する態度を決めている。本省が公共道路事業に取りかかる事は無論天草架橋の着工を前提とした処置で、この点からみても架橋の早期着工は間違いない。』

なお、道路公団本社と天草架橋問題について折衝、帰任した鷲崎県土木部長からも「天草架橋は現在道路公団でも全国第四位にランクしている大工事で昭和36年度着工は確実。早ければ、35年度に一部工事に着工できるかもしれない。」天草振興連絡協事務局に連絡があった。天草架橋の昭和36年度着工は確実とみられている。










  • [52]
  • 天草架橋実現への道No.40

  • 投稿者:ごほんガゼ
  • 投稿日:2013年 9月15日(日)23時16分27秒
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天草架橋実現への道No.40

昭和34年     その2

<森国久期成会副会長等架橋調査費の増額と早期着工を陳情>
<熊本県知事・天草架橋期成会会長は『寺本氏』に>


(みくに 昭和34年2月6日)
≪公団藤森計画部長は語る≫
昭和34年1月29日、公団本社から藤森計画部長、公団福岡支社長、有田調査課長が架橋現地視察に来熊した。藤森計画部長に対しては森国久期成会副会長、蓮田県議、牧野本渡土木事務所長等が県庁で期成会で決めた『建設省で34年度二千万円の調査費予算を計上すること、35年度着工すること』の二項目の要望を陳情した。これに対し計画部長は
「国が道路公団に内示した調査費の枠が一億円しかないので、天草架橋の34年度のみ当初の数倍に当たる二千万円にすることは無理だと思う。また、着工年度については、若戸大橋が36年度に終わる予定なので、この点と関連して考えねばなるまい。というのは熟練した技術者の配置を考えるからで、その点から見ると、35年度着工はいささか急すぎるのではなかろうか」と語った。
架橋予定地視察後、有田調査課長は今後の見通しについて次のように語った。
「天草架橋の実現はもはや時間の問題といえよう、35年度早々に着工するのは少々無理かも知れぬが35年度の途中から着工することは技術的に困難ではないと思う。天草架橋が完成したら今まで離島という条件により蒙っていた後進性を取り戻すものと思う。
(みくに昭和34年3月13日)


<架橋関連道路早期着工を陳情>

「森国久天草振興協議会会長、牧野本渡土木事務所長、岡部本渡市助役等は天草架橋の関連道路の早期着工運動ため、3月3日上京、道路公団、建設省、計画企画庁等に陳情、9日帰島した。
今回の陳情は架橋着工の見通しがはっきりしてから道路工事にかかっては橋梁、道路の完成時期が歩調があわないから一歩先に道路を着手してもらいたいという事で、特に今月200万円で大矢野町に着工した道路は単年度事業であるためこれを34年度から継続工事とするよう強く要望した。牧野土木事務所長の帰任談によると『34年度中に道路の一部分着工が可能ではないかと見通しを得た』模様であり、またこの件については3月24日ごろ開催される離島審議会でも園田、吉田両代議士が積極的にその実現に努力することになった。
(みくに 昭和34年3月13日)



<天草架橋来年秋に着工か、道路公団も早期着手の意向>

「天草架橋期成会では先頃から昭和36年度着工を予定されていた架橋着工を35年度に繰り上げるよう関係方面に強く要望していたが、3月6日天草に来島した道路公団福岡支社有田調査課長は来年下半期には着工できるのではないかという明るい見通しを発表した。
3月5日東京から帰任した松下県企画第一課長は『公団本社で早期着工を陳情したが、福岡支社と同じ意向だった』と言っている。
これは福岡支社が若松と戸畑間の若戸大橋が仕事の大半を終わり、昭和35年7、8月頃から公団技術陣が天草架橋の方に廻れるという目安がついたもの。
このほど資料調査のため来島した支社有田調査課長の発表によると、34年度は橋梁の高さや航路幅の調査及び設計書の作成等を行ない、建設、運輸省に許可申請を提出する。
35年度上半期に若戸大橋の技術陣の手がはなせるので35年度後半には天草架橋着工に廻る見通しが強まった。
3月18日は寺本知事の会長就任に伴い天草自治会館で開かれる天草架橋期成会に田中福岡支社長も出席し、架橋の進捗状況の説明や地元の要望などを聴取する予定である。」










  • [51]
  • 天草キリシタン館

  • 投稿者:ごほんガゼ
  • 投稿日:2013年 9月 6日(金)21時51分7秒
  • 返信
 
先日、天草帰省のおり、友人と新装なった「天草キリシタン館」へ行きました。一階までは無料(ビデオ鑑賞あり)、2階は有料。一度では見切れない程の展示があります。
今では、本渡にキリシタン館は在って当たり前ですが、キリシタン館の開館は昭和41年です。実は、キリシタン館の開館にも「森国久」氏が深く関わっています。公式にキリシタン館(郷土資料館)の建設を提唱したのは森国久氏が最初かもしれません。天草架橋に限らず、天草全体の発展の為にさまざまな提案を森国久氏はしています。天草の観光はその一例です。
写真は天草が国立公園に編入された時の祝賀会。

  • [50]
  • 天草架橋実現への道39

  • 投稿者:ごほんガゼ
  • 投稿日:2013年 9月 6日(金)18時19分9秒
  • 返信
 
天草架橋実現への道39

昭和34年     その1


{ごほんガゼコメント}

昭和34年新年号の『みくに』に掲載された、ふたつの記事を紹介します。
ひとつは、『観光天草』への森国久会長の高らかな提唱である。
ここに至っては『天草架橋』の完成は時間の問題であり、天草振興のため観光立国【天草】とするためにさまざまな観光施設の建設を提言している。
ふたつ目は、天草架橋の先の『天草循環道路』について。鉄道のない天草では道路網の整備によって、はじめて天草架橋が活かされる。
森国久期成会副会長は「夢の架け橋」(天草架橋)が自己目的では無く、天草の将来の展望をしっかり見据え、構想を語り、架橋建設運動を実現していこうとしていた。
「 10年先、否100年先を見据えた人」と語られる所以である事が伺い知る事が出来る。一文である。

<昭和34年、年頭にあたり>

天草振興協議会長・龍ヶ岳村    森  国 久

「明けましておめでとうございます。郷土天草の島々は美しい、この天然の資源の上に薫り高い文化的な観光施設をと念願するわたしは、わたしらしい新年の夢を描いてみました。この夢は実現可能であり、郷土を愛する皆様とご一緒に考えたいものとあえて提唱する次第です。
一、離島振興事業
もう天草架橋は現実のものです。離島振興法についても旧ろう上京して新年度予算の増額運動を行いましたが、昭和33年度より4億円増加して、全国国費24億円が第一次査定をパスし、とくに港湾、漁港、道路予算は伸張し、本土並みの予算になりました。

二、郷土館の建設
キリシタン殉教の島である天草には祖先の遺された文化財が沢山あると思いますがほとんど死蔵されていることは惜しいことです。各方面の協力を得てなんとか保管するようにしたいものです。

三、植物園の造成
亜熱帯植物の育つ島であり、地域によってはバナナも実る気候です。

四、水族館の建設
東京の上野公園には海水の水族館があります。四面海に囲まれた天草島に水族館のないことは淋しいきわみです。天草では熱帯魚の飼育も簡単だと思います。


五、体育館の建設
野球場、プールの設置とともに郷土スポーツ振興の上から早急に実現すべきです。

六、ホテル、娯楽施設の増設
外国観光団の来島に備え、特に天草架橋完成後の観光客激増に対応して特別の配慮が望まれます。

天草を日本の天草に飛躍させるため、わたし達の手で着手できるこれらの理想を一日も早く実現して置きたいものです。
ここに、郷土を愛し、郷土を愛する為のわたしの私見を披瀝し、あわせて年頭のご挨拶といたします。



<循環道路の貫通はいつか、24万島民の要望>

「鉄道の無い天草では道路の整備こそ24万島民最大の関心事で、島内には開発改良を要する箇所が多く、特に島内周辺循環道路は産業交通開発の上から、また天草国立公園計画実施の上からも早急貫通が要望されており、天草振興協議会、天草土木協会では、早期実現を陳情して来た循環道路の現況並びに地元要望は次の通り。
▽富岡、崎津港線(昭和35年度までに竣工方を要望している)
▽帯取、牛深線(昭和34年度までに竣工方を要望している)
▽池の浦、本渡、三角線(昭和35年度までに竣工方を要望している)
▽西高根、本渡線(昭和34年度着工を要望している)
▽蛤里、三角線(昭和34年度着工を要望している)
▽本渡、大浦線(上津浦、下津浦間)(昭和34年度着工を要望している)

なお、政府では現在来年度予算を編成中であるが、この循環道路は天草架橋の取付道路が公共事業として実施されるので、政府予算の圧迫を受ける恐れがあり、地元では架橋道路は離島予算の枠外で施工してくれるよう強く要望している。」

森国久氏の写真







  • [49]
  • 天草架橋実現への道No.38

  • 投稿者:ごほんガゼ
  • 投稿日:2013年 9月 5日(木)22時07分0秒
  • 返信
 
天草架橋実現への道No.38


昭和33年   その6

<架橋問題など島内町村長等うち連れ陳情!  桜井知事、森国久副会長連名陳情書提出!>

{ごほんガゼコメント}
「全国町村長大会で上京した機会に、大挙して、道路公団、建設省などに天草架橋早期着工を陳情した。この時の『陳情書』(天草架橋期成会長桜井熊本県知事と天草振興協議会長森国久龍ケ岳町長連名)及び写しに森国久氏の当日の活動メモがあった。
メモは東京天草郷友会はじめ、限られた時間で、多くの人達と精力的に会っており森国久氏の熱意と行動力の凄さが伝わる。」

(天草新聞昭和33年11月26日)

「昭和33年11月20日、東京で開かれた全国町村長大会に、天草から森大矢野、桐原御所浦、吉田栖本、森国久龍ケ岳、田川河浦、丸岡天草、平井苓北の各町村長が出席し、天草架橋の陳情を行った。
同日朝、建設省米田次官に天草架橋調査費2000万円を陳情したところ、次官から「現在冨樫技監が調査中で、調査費がどれぐらい要るか検討中」と回答があった。
同夕刻、 郡出身者の郷友会に呼ばれ、森国久龍ケ岳、平井苓北、丸岡天草町村長と鶴田天草振興協議会事務局長の4名が銀座で会食を共にして話し合った。
翌日21日は道路公団井尻副総裁と計画部長に架橋の陳情を行った。
『全国的な角度から大蔵省に要望しなければならないので公表はできないが、天草からわざわざ来られたので、福岡支社でも架橋には熱を入れていることでもあり、皆さんの期待に添うよう努力しよう」と回答があった。

「天草アーカイブズ」で保管されていた、森国久天草振興協議会会長の陳情書の写しに書いてあったメモ。
沢山の人に陳情しているのがわかる。

【森国久氏のメモ】
11月20日
米田次官
東京郷友会総会

11月21日
道路公団本社
井尻副総裁
菊池理事
藤森計画部長
西郡課長

建設省
砂防課谷口技官

企画庁  塩田技官

自治庁  財政課

11月22日
道路公団本社
建設省

企画庁計画部
三越物産展

(メモ以下省略)


以下は、熊本県県知事と連名での天草架橋に関する陳情書(原文)


【陳情書】


天草架橋の計画は永年に亘る島民の念願でありましたが、幸にも関係各方面のご理解とご援助のもとに愈々本格的調査を実施していただく事になりましたことは、誠に感謝に耐えない所でありまして、茲に厚く御礼申上げる次第で御座います。
この本格的調査は、やがて近々着工を約束されたものと確信し、今や二十四万島民の架橋実現への熱意は極めて大きなものがありますので、この際更に左記に関し関係御当局に於いてご検討をいただき早急に御解決賜りますよう重ねて御願い申し上げます。

                          記

一、昭和三十四年度調査費2000万円計上方を要望する。

二、昭和三十四年度調査を完了し、昭和三十五年度着工を要望する。

三、建設省の公共事業費は、離島振興事業費の枠外に於いて計上方を要望する。

四、連絡道路の一部を本年度救農土木事業として実施方を要望する。

五、昭和三十四年四月一日より、架橋調査事務所の設置方を要望する。

右の通りで御座いますので、何卒特別の御詮議をもって御採択の上宜しくお取計賜りますよう天草二十四万島民を代表して茲に陳情いたします。

昭和三十三年十一月二十一日

天草架橋期成会長   桜井  三郎
天草振興協議会長   森    国久









  • [48]
  • 天草架橋実現への道No.37

  • 投稿者:ごほんガゼ
  • 投稿日:2013年 8月21日(水)19時42分18秒
  • 返信
 
天草架橋実現への道No.37

昭和33年    その5

<進む県道整備と取り付け道路>

{ごほんガゼコメント}

「天草架橋の先の島内の毛細血管の一路線とも言える上島東海岸貫通道路がようやく龍ケ岳まで開通した。本渡までの道はまだだった。天草架橋開通までには上島東海岸貫通道路の完成が待たれる処だった。
一方、天草架橋の取り付け道路を公共事業として建設省が造ることが決定した。道路公団が造ると有料道路になるため建設費の償還が必要となる。架橋建設費の償還期間が短縮 されることになった。
ところが、公共事業として取り付け道路を建設省が造ると天草架橋の建設と切り離されるために架橋は完成しても、取り付け道路がまだ完成していないという事態が予想される。
そのために取り付け道路の着工を早める事も必要になった。」


<県道(高戸ー姫戸)開通式
櫻井知事を迎え>

(昭和33年9月15日龍ケ岳広報)

待望久しかった姫戸ー高戸間の県道開通式は、熊本県並びに姫戸、龍ケ岳両村の主催によって、秋晴れの9日9日高戸中学校校庭において櫻井知事を始め関係者、村民の千余の参会者を迎え盛大に執行された。
当日は午前11時、原田県天草事務所長の開式の辞に始まり、桜井知事の式辞、森村長の挨拶が述べられ、城戸本渡土木事務所長の工事経過報告があり、県議会代表松岡県議、郡町村会代表川上松島町長、緒方松島警察署長の来賓祝辞があった後、各方面からの祝電披露、万歳三唱で式は終了した。

桜井知事の挨拶から
「道路は人間に例えれば、血管の様なものだとよく申すのですが、全くその通りで、血管のが身体中に栄養を送りますように、この道路が十分備わりますならば村なり町なり地方の交通が十分行き届くことができまして、町村の発展というものが期して待つべきものがあります。
この上は高戸ー本渡間に残っている数キロの未改修道路を速やかに改修致しまして、この道路が完全に通るようにいたしたいものであります。」

森国久龍ケ岳村長の挨拶から
「三角ー池の浦線県道が開通したとはいえ、まだ大道地区には未改良区が数キロ残っておりまして、バスは勿論自転車も通らぬような状況でございます。知事さんには、本村が始まる前から大変お世話になっておりますして、本村におきましては松ケ鼻、或いは赤崎の県道の問題も解決しようという非常に温かい心を示していただいております。」





(天草新聞昭和33年9月10日)

≪天草架橋35年着工へ≫


建設省冨樫技監は6日天草架橋地点を視察したがこの機会に桜井知事、鷲崎県土木部長、原田天草事務所長、牧野本渡土木事務所長、値賀本渡市長、森大矢野町長、森国久龍ケ岳村長、川上松島町長等地元の架橋期成会は「架橋の早期実現、調査費の増額、道路公団では35年度着工に肚を決めている様に思われる ので、建設省でもその方向に踏み切ってほしい。」などを要望した。
この地元代表の要望に対し、冨樫技監は「地元の意向はよくわかった。今後その線で話を進めたい」と語った。


昭和33年9月16日
全国離島対策審議会出席の為上京
17日、18日開催
(龍ケ岳広報昭和33年9月15日)


(天草新聞昭和33年10月19日)

<難問の取り付け道路建設省で施行>

「県は天草架橋の早期着工を目指して道路公団及び建設省に猛運動を展開しているが、天草架橋の取付道路は公共事業として建設省で施工してもらうよう要望していた。建設省は道路公団と話し合い、各橋間を結ぶ取付道路は公共事業として建設省が施工する事になり早期着工に明るい見通しがついた。
架橋は今の処、昭和36年度に着工して5年後には完成する予定だが、取付道路を建設省で施工するとなると毎年の予算枠に限度があるため架橋と同時着工しても遅れるおそれがあり、県としては取付道路だけは来年度からでも着工するよう建設省にある要望する事になっている 。


(天草新聞昭和33年11月14日)
<天草架橋事実上着工、陸路の杭打ち終る>

天草架橋期成会理事会は11月13日、約20名の理事が集まって自治会館で開かれた。
天草架橋は昭和36年度着工を目指して五橋のうち、二、四、五橋はすでにボーリングを始め、一、三橋は潮流が速いため来年度、電気探査を行なう事になっている。
また、大矢野島の取付道路は9日から新設道路の杭打ちを始め12日終わった。
天草架橋はすでに実現の段階に入っているが、理事会では11月20日東京で開かれる全国町村長大会に出席する町村長が翌21日道路公団を訪れ、34年度の予算獲得及び着工年度の繰上を要望する事などを申し合わせた。





  • [47]
  • 天草架橋実現への道No.36

  • 投稿者:ごほんガゼ
  • 投稿日:2013年 8月20日(火)07時36分15秒
  • 返信
 
天草架橋実現への道No.36

昭和33年    その4

<道路公団と打ち合わせ会、その詳細報告>

{ごほんガゼコメント}

「昭和33年6月10日、熊本市内で道路公団、熊本県、天草架橋期成会の三者が集まり、天草架橋建設を前提に種々に亘り打ち合わせ会が開催された。以下は天草新聞がまとめた、打ち合わせ会の発言。

実際の工事着手は昭和37年7月であるが、大筋の計画はこの時決定したと言って過言ではない。ここに至るまで、森国久龍ケ岳村長は天草架橋期成会副会長として、運動の資金も乏しい中、離島振興法の協議会や審議会や全国町村長大会での上京の機会を有効活用し、建設省はじめ中央省庁や道路公団に陳情を重ね、天草架橋建設を現実のものにして行きました。天草架橋の実現は離島振興法からの適用除外をもたらすという、二律背反の中で、架橋完成までに、天草島内の道路整備、産業基盤の整備も図って行かなければなりませんでした。」


(天草新聞昭和33年6月18日)

<天草架橋問題はこう進んでる(上)>

≪調査内容と各氏の発言≫


天草連絡道路(架橋)調査打ち合わせ会は昭和33年6月10日、熊本市内むつみ寮で開かれた。
以下はその内容。

出席者
公団
田中福岡支社長
野原工事部長
有田調査課長
真田技師
竹尾技師
東京本社石戸技師
加藤技師

熊本県
水上副知事
鷲崎土木部長
同次長
道路課長
企画第一課長
その他

天草架橋期成会
原田事務局長
牧野、鶴田次長
平岡副会長
値賀副会長
森国久副会長
森慈秀副会長
蓮田県議

発言
◎土木部長
夢の橋も昨年来急速に具体化し4月には公団総裁一行の視察があり、次いで根本建設大臣一行が来島され、三年後着工の約束をなし、調査費も本年度300万円以上計上された事は地元として誠に喜びに耐えない。公団の調査に関し、今日その打ち合わせ会を開催、具体的に協議することになった事になった事は感謝に耐えない。高速度道路な沢山の事業をしておられるが、地元としては一日も早く立派な橋が実現する様要望する。


◎田中支社長
架橋問題は天草の皆様の要望であり、県でも非常な熱意をもっておられるので公団としても昨年から調査を開始し、今年度300万円以上の調査費がついた事は、同慶に耐えない。三年前県から架橋地点の水深を測量してくれとの依頼があった。その頃、私は九州地建におり、天草にも来て皆様にお目にかかった。その時側面的に応援する旨約束した。その後、公団に入り、この仕事を推進する事になった。公団としては現在、40箇所位調査を進めているが、いづれを取り上げるかはその経済効果と地元の熱意が実現へのポイントである。人後に落ちない熱意をもっておられるのでその熱意を中央にも反映してほしい。

◎有田調査課長
去る31年5月県では天草架橋実施計画書及び天草架橋経済調査報告書を作成されたので、6月、支社発足後この二冊と九大岡橋教授の物資流動調査を参考として調査に着手、当時の持永技師から現在竹尾技師の手で調査中である。橋の構造を如何にするか観光の面からも考慮しなければならない。今後の問題は建設計画と経済調査をなし、天草を如何に開発して行くかであるが真田技師から説明がある。

◎真田技師
本年度の345万円は主として土質調査である。事業計画として橋は公団でやるが、道路は公団でやるか、建設省でやるか判らない。一応、本年度末までに計画書を作りたい。経済調査は目下報告書を作成中である。33年度後半から調査、31年度は岡橋教授の調査、32年度は天草の産業現状と架橋による変化について進言した。又、交通の変化についても調査した。公共性は本土から離れているので後進性が強い。生産物は輸送費がかかり、市場が容易でない。産業の発展は遅れているが、架橋により本土並の経済が成り立つ見込みである。しかし、今日計数の発表は出来ない。
産業別にみると、農産物は架橋による変化はない。水産物は県の大半を占めているが架橋による輸送は少ない。架橋を利用するには道路の整備が急務である。林産物は陸送に移る。牧畜業も変化は少ない。商業は消費面が架橋によって変わって来る。又、移動のルートも変化が多い。観光面では架橋が完成した後は阿蘇、熊本、雲仙などにきた観光客は皆天草に行く。観光客は4、50万。行政上の移動が4、50万と見ているが、年々増加するので通行料金は20ケ年のうちに償還出来る。事業の認可申請は公団から建設省に提出されるが、工事費は約21億円を要する。このうち3億円が道路の建設費となる。本年度の調査は上半期において荷島の土質調査をやる。梅雨後航路を決定したい。


昭和33年6月20日天草新聞

<天草架橋問題はこう進んでいる(下)>

≪橋の全長(五橋)千三百二メートル、熊本通学も可能に≫


計画
本計画は大矢野島を三角町と結び、更に大矢野島と永浦島、永浦島と大池島、大池島と前島、前島と合津と言うように五つの橋で結ぶものである。
三角~合津区間は約20キロであるが、橋だけの長さは合わせて1302メートルとなる。

橋梁構造
(略)

事業効果
離島を陸続きとすることによって生ずる事業効果としては、
▼一般旅客の交通量の増加=海運によっては避けられなかった欠航、乗換、時間待ちが解消され、更に時間の短縮などによって現在の船客を大部分陸路に転換させ、経済生活が豊かになるにしたがって島民の旅行回数も多くなり交通量は漸増して行く。
特に教育面に遠距離通学の可能が上級学校への進学を可能ならしめる。

▼観光=通称天草松島と呼ばれる群島の風光、海洋美など四季を通じて観光客を招き夏季における海水浴客の増加が予想される。

▼農産物=特殊農産物、促成栽培農産物がトラック直送により各方面の市場を開拓する事が可能となる。

▼鮮魚=現在の海上輸送をトラック直送に切り替えれば水揚げ金額の増加は当然考えられる。

▼酪農=現在、輸送が不便なため年毎に衰徴しつつある。架橋によって必然的に増加する。

更に連絡道路及び橋の設計書をみると、
"連絡道路では、現在大矢野島の中央を通っている県道の幅員を広めるか、江樋戸の方に迂回して海岸線を通すかの二案がある。

  • [46]
  • 天草架橋実現への道No.35

  • 投稿者:ごほんガゼ
  • 投稿日:2013年 8月19日(月)18時59分15秒
  • 返信
 
天草架橋実現への道No.35

昭和33年     その3

<根本建設大臣、岸道路公団総裁天草来島!!>


{ごほんガゼコメント}

「いよいよ、天草架橋実現のために、決定権を持つ道路公団総裁や建設大臣の天草来島が実現する。
『根本建設大臣は昭和36年度着工を明言』し、島民は『道路開発なくして、天草架橋なし』と各部落を挙げて着々と道路整備に協力していた。
離島振興法の事業計画でも、道路整備費増額を実現した。
道路公団福岡支社から支社長始め、各担当者が来熊し、県担当者、天草架橋期成 会と打合せ会を開催、天草架橋も予備調査から具体的な様々な事項を決定する事業計画段階へと進んでいった。」


<岸総裁一行天草入り
架橋地点視察、下田一泊>
(昭和33年4月6日天草新聞)

「岸道路公団総裁はかねて天草架橋期成会から強く要望されていた架橋地点の視察を行う事になり、天草まで足を延ばす事になった。
一行は岸総裁をはじめ西郡秘書課長、田中福岡支社長、中野福岡支社監理課長、吉田重延氏、県鷲崎土木部長、県企画第一課長などである。
岸総裁の天草入りは初めてであるが、これによって架橋実現へ数歩前進したといえよう。」



(天草新聞昭和33年4月25日)
≪天草架橋実現本決まり、根本建設相現地で語る。  着工は36年度≫


「根本建設相は天草架橋決定のため昭和33年4月24日現地を視察し、次のように語った。
『橋を架ける事は間違いない。しかし、こんな大工事には調査期間を三カ年間位要するので、36年度から着工する事になろう。工事内容は費用その他通行料の関係もあるので、取り付け道路と橋だけ道路公団で施工し、他の道路は建設省でやる。来年度から本格的な調査費が計上されるだろう。』」


<汗の奉仕、待望の県道開通近し>

(昭和33年5月15日龍ケ岳広報)

「20数年来、自動車の乗り入れについて要望して来た本村(龍ケ岳村)では、いわゆる県道『池の浦ー三角線』がようやくこの6月末開通されるので、この喜びを前に、去る4月30日早朝より、高戸地区部落民初め高戸中学生、役場職員一同県道手入れの砂利敷きあるいは補修と折からの雨の中をついて、汗の奉仕を行った結果見違えるようになり、隠しきれぬ喜びにバスの乗り入れを待つばかりになった。」



(天草新聞昭和33年6月1日)
<離島振興法に基づく事業、37年度迄に47億円、天草に投入開発>

「県企画室では計画書をまとめ、県企画室次長が上京していたが、29日帰熊、次の様に語った。
『計画変更により4億5千万円増され、残る5年間で48億円の計画事業を実施。
天草架橋と循環道路に関する幹線道路の整備費は8億2千万円。』
県では近く町村長を集め、詳細な説明会を開き、事業の推進に万全を期すことになっている。
この事業が完成することになっている昭和37年に予定通り完成すれば、島民の所得は一人当たり57200円になり昭和28年の計画当初より27000余円増える予定。」



<公団田中支社長、本社工事部長等来熊>
≪着々進む架橋問題≫

(昭和33年6月1日天草新聞)

「去る4月末、園田代議士と共に天草架橋地点視察のため来島した根本建設大臣は『天草架橋は昭和36年に着工する』
と声明し、島民を喜ばせた。その後、道路公団と建設省では実現のため話合いを進めている。
本格的調査の基礎にするため、来たる昭和33年6月9日、道路公団田中福岡支社長、有田調査課長、東京本社野原工事部長などが県庁を訪れ、県側と協議会を開き、10、11日の二日間架橋地点を調査したあと、調査結果に基づいて本格的調査に乗り出すことになっている。
なお、9日の協議会には天草から原田県事務所長、牧野本渡土木事務所長、森国久天草振興協議会会長、値賀本渡市長等が出席する。」


<天草架橋着々進む 、道路公団田中支社長一行来島>
(天草新聞昭和33年6月13日)

「道路公団田中福岡支社長を始め、野原工事部長、有田調査課長と係員二名、それに東京本社の調査課員、技術課員などの一行七名は10日天草架橋調査のため来熊し、県及び天草架橋期成会側と打合せを行ない、午後は架橋地点を視察して、翌日は島の経済状態、道路を視察し12日離島した。
10日の打合せ会には天草から原田天草事務所長、架橋期成会の役員全員が出席し、公団側の説明を聞くと共に要望を申し入れた。
公団の説明によると、
『昭和32年度に予備調査を終わった。昭和33年度は当初の事業計画を固める年だ。
橋の高さをどの程度にするか、航路幅(橋脚間)をいくらにするか、当初の計画を変更する必要はないかなど、現地を見て最終的な計画書を作り、認可申請をしなければならない。
先に調査した経済効果の結果はまだ、まとまっていないので何とも言えないが、観光面で見込みがある。
今年度中、第一架橋地点を主に調査する予定。必要とあれば予算を追加することも考えられる。
本社からも早く調査を進める様にとの指示を受けている。
天草架橋成否の鍵は地元の熱意を中央に反映させる事が一番大切だと思う。』と説明した。」










  • [45]
  • 天草架橋実現への道No.34

  • 投稿者:ごほんガゼ
  • 投稿日:2013年 8月18日(日)09時04分6秒
  • 返信
 
天草架橋実現への道No.34

昭和33年    その2


「今年度(昭和33年)が一番大事な年である」
森   国  久  天草振興協議会長


{ごほんガゼコメント}

「市町村合併後、天草の各首長が指導力を発揮できない中、人口9167人の小さな龍ケ岳町・森国久町長は天草のリーダーシップを発揮している。
  天草架橋実現運動が正念場にさしかかるなか、当時、天草の市町村は合併後の後遺症により、リーダーシップを発揮出来ず政治は停滞している状況に・・・。
   当時の新聞記事をみて見ましょう。

≪合併はしたけれど、助役人事が悩みの種。河浦、新和、苓北等≫
(昭和30年2月18日みくに)

≪本渡市議会、四派に分かれ荒れ模様≫
(昭和33年4月2日天草新聞)

町村合併後の新市、新町、新村は旧町村からの勢力争いや旧自由党、旧民主党などが絡み合い、又、首長の交代(大矢野では昭和33年4月、矢住氏から森慈秀氏へ、昭和34年、松島も川上氏から西本氏へと首長が交代)その他の町村も旧村の融合等に力を削がれ、なかなか首長のリーダーシップは発揮出来ず、表出するものはありませんでした。
  そのような政治状況の中、離島振興法の成立での活躍で一躍「全国離島の期待の星」となった、樋島村長(森国久氏)は、いち早く大道、高戸、樋島の三村を合併させ、天草一番の貧しいと言われていた村を、天草一の『第一種事業税(県税)』を納めるまでに龍ケ岳村を育て、その発展はめざましいものがあり、全国的にも若手村長として注目され、40歳にしてトップランナーとしての位置を確立しています。
その一部記事を見てみましょう

(昭和36年4月21日『みくに』)

<第一種事業税(県税)成績、龍ケ岳町が一位>

「熊本県ではこのほど第一種事業税(県税)を発表したが、天草郡市では他の郡市に比較して低額の税率であった。
この第一種事業税は物品販売業、製造業、運輸業、旅館、料理店、飲食店、演劇興行など35の業種であるが、天草郡市では総額に於いて本渡市が418万円で最も多く、牛深市、松島町、大矢野町と続いている。
しかし、これを一人当たりの事業税から見れば、運送業で九割を占める龍ケ岳町が157円でトップ、続いて松島町の土石採集、請負業、運送業などを中心に140円、他の市町村はいずれも百円台を割る低い事業税率を示し、本渡市が製造業、物品販売業、旅館を中心とした飲食店と娯楽場で96円を示しているのは龍ケ岳町、松島町と比較した場合消費中心主義である事が判る。
市町村別事業税は次の通り。
単位は千円(カッコ内は一人当平均税額、単位は円)

①龍ケ岳      1427   (157)
②松島          1750(140)
③本渡          4180  (    96)
④姫戸              593(  95)
⑤御所浦          839(  93)
⑥牛深          3219   ( 86)
以下略」



「天草架橋陳情団上京、郡民の強力な協力を要望」森期成会副会長発言

(昭和33年2月23日天草新聞記事から)

「天草架橋期成会では
(一)昭和33年度架橋調査費増額要求(目標千万円)
(二)岸道路公団総裁の来島要請
(三)建設省に架橋取り付け道路の促進
等陳情のため昭和33年2月27日、平岡四子男(県議代表)、森国久(天草架橋期成会代表)、牧野大三(県土木部代表)、川上秀志(地元町村代表)等の一行は、一応福岡支社に立寄り、支社の意向を質し、その後、上京して関係機間に陳情する。
上京を前に森国久期成会副会長は
「先般上京した際、副総裁に会い架橋の早期実現を要望した処、33年度中に架橋地点の全部をボーリングしたいともらしていた。架橋実現も間近いと思うので島民のご支援を願う」と語った。


<天草架橋は必ず出来る、島民の熱意がカギ>
≪森国久副会長、期成会総会で可能表明≫

(昭和33年3月7日天草新聞)

「天草架橋期成会総会は3月6日、自治会館で開かれた。
会はまず、知事代理(平岡県議)の挨拶等の後、
森国久副会長の上京報告が行われた。
『道路公団福岡支社では本社に対し八百万円要求している。若戸大橋より天草架橋の方が経済効果があるので天草架橋に力を注いでいる。
本年度の調査予算は二百万から三百万円の間だろう。
東京本社では、建設省の国土整備五カ年計画に天草架橋も入っているので、橋を架けるということは間違いない。本年度の予算は当初二百四十万円を予定している。
根本建設大臣は天草架橋の事はよく知っている。書類が回ってくれば予算を増額する様努力する。』という有望な報告があり、ここ一年が大切な時期だから各市町村長はもとより郡市民の協力を望む。
旨森国久副会長から挨拶があった。
その後、鷲崎県土木部長、原田天草事務所長等の挨拶のあと、『33年度は架橋地点の調査を終り、34年着工できるよう努力する』旨の大会決議が満場一致で承認された。
なお、当日の焦点として、架橋について今年度が一番大事な年である。それは道路公団も建設省も最近乗気になっている。ここで郡市民の架橋意慾を盛り上げねばならない。
これには町村長が率先して旧年度の架橋募金を完納し、併せて本年度の架橋募金を募らねばならぬと思う。架橋後のことを思って島民も一円でも五十銭でも募金してもらうようにせねばならぬ。」








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